そくわんを買う

枕を買いに行こうと思っている。私の頸のかたちにぴったり合っている枕を長年使っておりこれについては安心しきっていたのだが、そもそも、「長年」使っているものが「ずっとぴったり」なわけはないのだ。近頃やけに肩周りとか頸周りの疲れがとれないなと不思議に思っていたのだが、昨晩、ふと目が覚めたときになんだか頸のあたりの角度に居心地の悪さを感じ、あっこれ、枕、へたったんだな、と気づいた。いちど体を起こしてしまうと二度寝するのが大変かも、とは思ったけれど、このままの枕で、上を向こうが右を向こうが左を向こうがどうやっても、翌朝私の頸はがんがんに凝り固まるだろうという気がして、ふとんを出てタオルを取りに行き、枕にひとまわりさせて高さを少し高めてからそこに頸を埋めて安心して眠りについた。果たして翌朝、がんがんに凝り固まってすっかり動かなくなった頸がそこにはあった。なるほど、大事なことは寝ぼけ眼で遂行してはならないと、ひとつ賢くなった。たとえば出張先の枕が高くて合わないときに、スマホの向こうから気軽に語りかけてきたライフハックを真に受けて、バスタオルをくるくる巻いて「途中で巻くのをやめて、巻き取っていない部分を背中側に垂らす」というのを何度かやったことがあるが、あの簡易枕は寝始めはいいとしても朝起きたときには無惨に破壊されているのでほぼ意味がない。無印あたりで売っている安くふわふわのクッションにカバーを巻いて枕代わりにするというのもやってみたが、これも所詮は「枕もどき」でしかなく、ソファでクッションを敷いて寝る時はあんなに気持ちいいのに、ふとんだとなぜクッションはクッションでしかなく枕の代わりには決してなってくれないのか不思議でならない。場が人を作るという言葉もあるが、床(とこ)が枕を作るということもある。枕を買いに行こうと思っている。それは決してオーダーメードの高級枕である必要はなく、しまむらやサンキあたりで売っている格安の枕でもかまわない、ただ、クッションであってはいけない、毛布であってもいけない、ペット用ソファが一見ちょうどいいサイズに見えたとかいうことがあっても騙されてはいけない。値段が高くて形も材質もぴったりな、しかし枕ではない何物か、ではだめ。安くても形が多少変でも材質が微妙でもそれは枕であったほうがいい。ただし、私の長年使い古した枕は買い替え時なのである。このへんの理屈はまったく統合されていない。体系からはずれている。「買い物がしたい」という私の欲望によって理論が大きく乱されていると考えたほうがいいのかもしれない。


妻と声をかけあって100円ショップに行き、やや大きめのお椀を買った。近頃は味噌汁に具をたくさん入れるのが楽しいのだが、私が無計画に作ると具がてんこもりになって汁が見えなくなることがあり、であれば、もう少し大きな椀を用意して、一汁一菜的におかずをすべて汁物の中にぶちこんでしまう夜があってもいいのではないかという話からそうなった。思えばこれまでの人生で豚汁を最もすすったのは家ではなく職場の食堂である。豚汁を食むならば漆器の椀よりも安価なプラスチックの椀のほうが唇との相性がよい。そういう意味で「しょうがなく100円ショップ」なのではなく「攻めの100円ショップ」である。セルフレジに並びながら、ああ、ここに枕があればいいのにと、とっさに思った。低反発だか高反発だか知らないが、意識は失っても重力との関係は失わない体を休ませようとするにあたって、肌と脂肪と筋肉、私の体のごく表面にうすっぺらく分布するガワの部分を程よく支えてくれるのは、本当はマイクロビーズとかソルボセインのような練度の高い素材ではなくて、ダイソーやキャンドゥが繰り出す、含意ゼロ・野心ゼロ・プラごみ再利用の社会のスペーサー的存在ではなかろうか。100円ショップ 枕 で検索すると、550円くらいで実際に枕が売っているという。ああ、そうなんだろうなと、この「検索したらちゃんと出てくるということ」に私は頸の収まりの悪さを感じ取った。なんかだめだろうな。検索して出てくる程度の「真ん中さ」に、私のゆがんだ頸椎が支えられるような気がしない。