自然と音が鳴る

足元の番号に沿って並んでいたのだが電車のドアは少しずれたところに開いた。お茶も買わずに乗り込む。それなりに長い旅路ではあるけれど、何度も乗るうちに体が距離を覚えてきたようだ。居眠りしていてもそろそろこのへんかなと予測して目をあけるとだいたいその駅である。別にこれが便利だとは思わないが人間というのは不思議なことができるなあと自分で自分に感心するところはある。人類が選択圧を受け続けてきた過程で、この機能を残す必要があったとは思えない。なにか別の機能を達成するために組み上げられたシステムを副次的に使うと「高速で移動する乗り物の中で体内時計だけでなんとなく今いる場所を割り出すことができる」というアプリに「自然となっている」のだろう。「自然となっている」は強い。できればあらゆるよしなしごとに対して「自然となっている」の心持ちで対処できればいいなと思う。徒然草の中に然という言葉が入っているのもあながち言霊のあやというだけでもないのかもしれない。

電車が動き始めてそれなりの走行音がしているし、車内のアナウンスもしっかりした音声で流れているのだけれど、控えめにぱそぱそ叩くキータッチの音は周囲の粗大な環境音を押し分けるように耳にまっすぐ届いて、周りの客にも迷惑かなと思ってさらに少し入力の音を小さくしようと努力する。指を見て音を聞くと、あまり音を鳴らさずにすむのは両手の内側側、特に人差し指や中指の部分で、どうしても音が大きくなりがちなのは移動距離が一番大きな右手の小指、それがエンターキーに向かってぐっと伸びだすときに押さえきれないぱしっという音が鳴る。よっこいしょの音。手間をかけ、距離をかけ、区切りをつけるような仕事、勢いを抑えたつもりでも、どうしても煩くなる。その煩さを自覚して制御しようと思ってもなかなかうまくいかない。なんなら、音自体は小さくできても、今度は「またエンターを押すときに音がでかくなっていないだろうか」と、耳のほうが鋭敏になってしまってノイズの虜になる。


ある研究の共同研究者になった。私はボランチもしくはやや高めの位置にいるセンターバック的なポジションで、司令塔からいったんボールを下げた先にいる。前方から預けられたパスをトラップして周囲を見回し、前に向かって走り出せそうなウイングバック的研究者を見つけて、その研究者の前方にあいたスペースに、逆回転のかかったパスを放り込んでみた。すっとトラップして相手のサイドバックをぶち抜けば、そのまま自分でゴールまで持ち込んでシュートまでいくのもよし、ライン際を駆け上がって決定的なクロスを上げるもよし、鋭角に折り返してトップ下のミドルシュートを誘発もよし、という状況であった。さあ、どうするか、と思って見ていると、ウイングバックはやおら足を止めて、ホイッスルを吹き、長机、パイプ椅子、民放各社とNHKとウェブメディア用のマイク複数、たくさんのスポンサーの名前がかかれた背景ボードをえっちらおっちら引き出してくるのだ。私たちが呆気にとられていると、ウイングバックはおもむろに、自分がいかにキャリアを重ねてきたか、どれだけフィールドを見渡せるか、研究の細かな齟齬や障害にもすぐに気付けるという自負、イニシアチブを担えるだけの能力があると見せつける自己アピールをとうとうと語りはじめた。両肘を突いて、手先は今にもあやとりでギャラクシー((c)野比のび太)を作れそうなくらいによく動く。そしてパフォーマンスにリフティング。撮影タイムとばかりにリフティング。試合は中断。司令塔は「よくあることだ」とばかりに落ち着いている。私はいったんピッチから外に出てスポドリを飲みながらアキレス腱を伸ばし、「遠いとどうしても音が鳴るんだよな」みたいなことを線審と語り合う。