リハビリのヤンデル

確実に忙しくなった。しかし、「私の指先から旅立っていった仕事が配達された人数」を考えるとむしろ減っているのではないかと思う。仕事が遅くなった。それも目に見えてわかる程度に。忙しさを感じているわりに達成した案件の数は少ない。小さなミスも増えている。

これまで、ひとりの患者の手術検体を病理診断するのに30分かかっていたとして、今はふつうに1時間半くらいかかる。

診断のクオリティはたいして変わっていないし、脳の弁別能や判断脳もべつに下がったわけではない。たとえるならば、大学時代からずっとウィンドウズのPCしか使っていなかった人が、とつぜんMacのキーボードしか使えなくなった、みたいな感じなのではないかと思う。あるいは、昨日まで右利きだった人が、左手しか使ってはだめですと言われて卓球をやっている、でもいいだろう。

こうしたいというイメージはある。しかし指、目線、体幹、そういったものの角度や加速度が今の仕事場にまったくマッチしていない。補正しないとままならない。

毎日、帰宅してから、どんなに遅い時間でもなるべく自炊する。朝、出勤前に、家を出るのをちょっとだけ遅らせて、クイックルワイパーで床掃除をする。そういう、「自分に必要なクオリティの限りで100%近い成功率を誇るタスク」を、1日のはじめと終わりに仕込んでおくことで、日中延々と続く「達成感の欠如」を補っている。きっちりあたためた味噌汁を飲んでいる瞬間にほうっと人の気持ちになる。



『ピアジェ 思考の誕生』という本を読み進めている。ややうがった見方をすると、高次脳機能障害からリハビリテーションによって新たに生活を取り戻していく人の話が散りばめられている本だ(たぶんそうではないのだが、そう読むことができる)。思うとはなんなのか、考えるとはなんなのか、脳のしくみ、そして脳の発達とはなんなのか。100年1000年繰り返されてきた疑問を、脳神経科学と哲学の両面からなんかうまいことまとめてやろうという鼻息荒い本である。科学についても哲学についても、取り上げられている知識のひとつひとつはダイジェスト気味であまりきちんと消化されているとはいい難いのだが、学際的に両者に目配りをしながら臨床に向かって統合を投げかけようとしているあたり、まあなんか偉い本だなという感想。

読んでいるうちに、私の今の苦労は、「自分の特性と環境とを融合させながら組み上げてきた、脳と体の統合を、あらたな環境にマッチさせるためにいったん解体しようとしたら、あちこち断線したりちぎれたり歪んだりして大変なことになっている」というものなのだろうなと思う。私が今まさにやらなければいけないことは脳外科的リハビリとちょっと似ている。これまではできたことなのに、とかつてを振り返って悲しむのは、人だから、それはそう、そこは止まらない、けれども、どこかで奮起して、過去の成功体験を振り切って、あきらめというバランスボールの上でぐっと姿勢を保持しながら、新しい環境でもなんとか再利用できる自分のパーツ、配線、アプリケーション、そういったものを探し出し、新しいやりかたで組み替えて、適応させ、前とは違う安定に向かって、土のグラウンドに爪を立てながら匍匐前進するかのように。リハビリは尊厳のトレイルランニングだ。尊厳に向かうのではなく、尊厳の山肌を、尊厳そのものを感じながら長く苦しく小走りで、ひたひたと踏破していくものなのだ。