写真家の幡野広志さんの文体はおもしろくて、それこそまさに写真のように、ライティングとか画角的なものが非常によく考慮されている。私の陳腐な直喩はさておき、なんでもかんでも写真に引き寄せる・こじつけるような文章を書くわけでもなく、写真家がたまたまものを書いているとい副業的な印象でもなくて、確立したスタイルをもった一人のエッセイストなのである。これほどうまいと、おそらく猛烈なファン10:アンチ1くらいの割合でリアクションが出てくるだろう。どこにも引っかからない、何も喚起しないような文章というのは、ファンもつかないしアンチも出てこない。何かをきちんと照らしているからこそ心をポジティブにもネガティブにも動かされ、なかには嫌がる人も出てくるだろうな、と思うし、そういう文章というのは、アンチ1を税金として支払いつつファン10とかファン100とかファン1000を盛り上げてくれている。

https://note.com/hatanohiroshi/n/na5f1d45ee81d

なぜいきなりこんな話をはじめたかというと、この記事がすばらしかったからだ。「自己紹介」というものをこれほど見事に語った文章にはついぞお目にかかったことがない。たいしたもんだなあ、と思ったし、そう簡単に真似はできないけれど、いつか自分もこういうことをやってみてもいいな、と思わされる文章であった。

おりしも、Xで、ヒコロヒーが書いたすばらしい随筆を見た。それは端的にいうと「自己を紹介することの傷害性」みたいなものに対してとても丁寧に処理を加えていって、素材のうまみの部分だけを残すべくたくさんの包丁を加えた結果ニュアンスのだし汁みたいになった逸品であった。

https://brutus.jp/hiccorohee_048/

私はこのヒコロヒーの文章と幡野さんの文章を両方読んで、「自分をどう語るか」に対してあらためて自覚的になった。



私は本当にいろいろなものを次々忘れていく。たまに家族と夜にテレビで2時間くらいの映画を見ながら飯を食ったりするのだけれど、前にどの映画を見たのか基本的には思い出せない。先週何見たっけ、タイトルは、展開は、細部はおろか主演俳優すらも相当がんばらないと出てこない。ビールを飲みながら、ときにはトイレに立ちながら見て、最後にはたいてい眠くなっているからということもあるだろうけれど、それにしてもどうも近頃の私は忘れないための努力みたいなものを面倒くさがっていて、「期待値」以上に忘れてしまっているようで肩身が狭い。この、「自分はものを忘れる」ということを、たとえば何気ない会話のタネとして人とシェアする。と、「ああ、私もそれくらい忘れるなあ」とか、「むしろそんなの覚えているほうが珍しいだろ」みたいなことを返されるのだけれど、こういう、自分の劣性の部分を開示したときのリアクションが、私に対して優しく触れてくることはめったにない。たいていは押して押し返す反作用的というか、ちょっと突き放されるかんじというか、なんというか、どことなく不全感をおぼえる。自分を誇らしく飾って語っているのではなく、むしろ卑下して小さめに語っているのに、なぜみんなは少し辛辣に反応するのだろう、という、解せない気持ちがあったのだが、内心ひそかに、「そもそも会話の中で自分について語ること自体が、持ち上げていても下げていても、なんらかのアピールでしかないのだ」ということに、私自身も気づきつつはあった。そんなある日、ヒコロヒーの文章を見つけて、そうか、自分のことを語るというのはやっぱりそういうことなのかと、自分がこれまでしっかり体験しまくっていたわりにうまく概念として咀嚼できていなかったことを、他者の言葉でうまく彫琢してもらえて、私はとてもうれしかった。さらに、次の瞬間には、たとえばこの「うれしかった」という言葉をここに書きつけて誰かに読んでもらうということにも、もっと慎重であってしかるべきなのかなと、堂々巡りのサーキットに入場したばかりの新人レーサーのような顔でフルフェイスのシールドを下げた。

ただ、ヒコロヒーの言うことがそのとおりだとは思う一方で、そういうことを私よりも先に「肌感覚としてわかっている」人が現代にはすでにたくさんいる。なるべくお互いのコアの部分に触れずに、表面だけパリパリに焼き上げてその皮だけを周りに提供し、内面のとろっとした部分は供さない、北京ダック的人付き合いが一般的になった。中身を出すとにおいが出る、触感に対する好みも分かれる、焼き加減については誰しも一家言持っている、だから語らない、というのがヒコロヒーのあの日の文章の雑な要約だとして、私はそれに納得して追随する、8割は追随するのだけれど、2割の部分が、写真でも見返してみたらどうかと私に問いかけてくるのである。