自分でやったほうがいいんだ

家族が発熱していると聞き、落ち着かない。体調を崩した家族を見舞うよりも大事な仕事が世の中にあるのだろうかと首をひねりながらりんごを剥いて食べる。Goでタクシーを呼ぶ場所もだいぶ慣れて、電車の時間にほどよく間に合うぎりぎりで家を出られるようになった。ダメ押し的クイックルワイパーで部屋を一回りする時間や、洗って拭いて乾かしておいた食器を戸棚にしまう時間が稼げる。

昨晩、講演会のあとに飯を食った某科のスタッフたちに、働き方の話を聞いた。この地特有のものだろうが、月に1度、片道250キロを自分で運転して出張に行き、2ヶ月に1度、それとは違う方向にこれまた片道250キロを自分で運転して出張に行くというので驚いた。年間の走行距離が25000キロを越える医者なんて聞いたこともなかった。電車は冬季はすぐ止まる、なにせこれらの地域はもともと赤字路線だからJRもあんまりまじめに機材をやりくりしない、タクシーだと7~8万円かかり、4時間ずっと運転手に話しかけていないと吹雪の中でいねむりなどされても困る、だから自分のペースでのんびり運転していくのがいいんだ、などと口々に言うのだ。ほんとうにびっくりした。若手ではない。きちんと偉い人たちがだ。同じことを下にやれとは言わないようである。それはそうだろう。しかし彼らはそれをやりたいと思ってやっている。この場所で出会う人々はみんな心の何かがおかしく変形している、いや、変形というとおかしいか、あらゆる形状は相対的で、元はこう、それが変わってこう、などと言えるものではない。ゆがんでいると思っているのが正常で、まっすぐだと思っているものが異常という見方も完全に成り立つ。それは精神がストレートネックになっているかのようだ。左手がしびれる。頸椎がまっすぐすぎるからだ。ゆるやかにアーチを作ってくれていればこんなことにはならなかった。某科のスタッフたちの心は、みなアーチを作って、しなやかに、ケイパブルな感じになっている。

私は考え込んだ。いい働き方とはなにか。世の中のためとはなにか。自分のためとはなにか。AIについてどう思う? 事務仕事が減らせればいいなと思いますよ。私たちのように、ポジションがあがると、こんな形式的なこと、どうしてやらなければならないんだと、思うような仕事ばっかりだよ。それこそAIでいいんじゃないですか。立場にいる、ということが大事な場合もあるんだよ。「ただ、いる、だけ」を語った本があったなあ、という、見当違いなことを、私は思った。「ただ、いる、だけ」がケアだと言っていたけれど、あの本では、いや、そうだろうか。「ただ、いる、だけ」というハラスメントもあるよなあと、私は思った。冬の運転はあぶない。電車が速度を上げていく。一週間ぶんのブログを、今書いてしまえば、どれだけ楽になるだろうと私に思わせながら、電車が速度を上げていく。