影に響く

燃え殻さんのlettersを購読している、そろそろ課金制に移行するようだがこのまま読み続けていきたいと思う。1日に1,2通、Gmailに届く、燃え殻さんの「今」が。規模はぜんぜん違うが私も毎日何かを書いている、だからわかる、日常のきしみを文章にし続けていく、その、「し続けられている文章」というものが、どれくらい転げ落ちていくものなのかということを。

目と心に染み付いた重力加速度ほどではなく、もう少し鈍重で、もう少し転がり摩擦の大きい感じではあるけれど、それでも日記的な文章というのは、よっぽど気を使わないと、あるときちょっとした傾きに足を取られたが最後、あとはもう、日に日に転がっていく、滑り落ちていく、着々と偏ってしっかりとずれていく。球面の上に暮らす私たちはその場にとどまっているつもりでも少し考え事をしているうちにもうかつての風景がまったく見えないどこかにいて、歩こうと思っていたわけではないのにいつのまにか足がくるくると回ってしまっていて、まるでRPGのNPCがその場で足踏みをしながら少しずつデフォルトの配置から外れていくかのように、「ここは ラダトーム。」を伝えるむらびとが入り口ではなくどうぐやの中にはまりこんでしまっているかのように。

燃え殻さんはすごいと思う。彼の文章は飽きないし、変化もきちんとしていくし、同じところにとどまっているわけでもないのだが、そのくせ、「おかしな方に転げ落ちていかない」のである。ふしぎな塩梅だ。じょうずな感覚である。みごとな積み重ねとも言える。私もああなりたいなと思うわけだが、ああなれる人が少ないからこそ、彼は職業執筆者として働いているんだよなと、若干あきらめているふしもある。まあ、私は、書いて食っているわけではないので、そうなる必要もない、ただ、そうありたいと願うことは、職業意識とか自己顕示欲とはちょっと違った座標系で振動することなのではないか。


私の半分くらいの年の方の、髪の色、うっかり、いい色ですねと告げてしまった。ハラスメントでクビになるかもしれない。なぜあの瞬間ゆるんでしまったのだろう。バイブレーションするスマホが机の上でにじり去るようにずれていき、机から落ちる、ああいう感じだなと思った。私はなんかもう、ぜんぜんだめだなと思う。とはいえ、肩で風を切って歩くような中年にもなりたくなくて、近頃の私は、ぺこりぺこりと頭を下げることばかりしている。剣道をやっていたころ、どうして人は猫背で歩いたり座ったりするのか、もっとしゃんとしなさい、しゃんとして悪いことなどないだろう、と思っていた。今、逆に思う。しゃんとした人間にろくなのはいない。私もたいがい、ろくでもない人間だけれど、しゃんとしているよりははるかにましだ。でも、ましでも、クビになるかもしれないからな。落ち込む。胸を張るよりはいいかなと思いながら。