SNSで人に返事をしなくなってしばらく経つ。心が痛む。コミュニケーションをしないSNS。オートクラインだけで細胞が生きていくというのは無理な話だ。エンドクラインはやりすぎ。パラクラインはやらなすぎ。グランドトラインは石化。パークアンドトレインは値上げ。パークアンドライドだったっけ。ワカラナイン。
合併が取り沙汰されている病院の横を通り過ぎる。ま、そんなことは、一切起こっていない、気の所為なんだけども、合併が取り沙汰されている病院には、看板がかかっているように見える、「この看板をォ! ワシらはァ! 絶対に降ろさんぞォ!」みたいに見える。そんなことは一切起こっていないがわりとしっかり声として聞こえてくる。叫ぶしかないよな。断末魔っていう言葉はふしぎな字面だなと思う。断、というのは、sharpなmarginのイメージでありつつ、長軸方向に対して直行するような、延髄切りの、クロスするような印象なのだけれど、一方で、末、はなにかから続いている、長軸方向に沿ったイメージであり、つまりは断末というと長軸+それに直行する面、の両方を表していて、空間的なのである、その空間を魔が飛び去る、油膜に洗剤を垂らしたときのスピードを1ジョイとすると、マイナス1ジョイくらいの勢いで、逆に油膜で覆われてしまうような感じ。断末魔。空間を満たす。ああ、ふしぎな字面はきちんと、言霊を強化して意図を換喩するような機能を持っているのだな。合併が取り沙汰される病院の横を通り過ぎるとき、私は空間に何かが広がっていることを感じ、そこにいくつか直行する切断面からなにものかが響いてくる様子を感じる、看板というのはその象徴なのだろう。看板は割るものだ。なぜだろうな。道場の。空手家の。あるいは、コマの枠線のような。パトレイバーで泉野明だったか、枠線を殴って割っていた、あれを思い出した。
ふと、私はよく思い出すなあと、ただしあくまで文章では、という断り書きがいるけれど。日常、思い出せない。先日、あるすごい病理医が、スライドカンファレンスというのをやってくださって、私はそこですごく楽しい、興味深い体験をできて、ああー病理医やっててこのおもしろさがわかってよかったーと本気で思ったのだけれど、ひとつだけ悲しかったこと、私はその病気の名前を、たかだか2か月くらい前にきちんと本で読んで勉強していたにもかかわらず、彼のスライドを見てもその病名にぜんぜん思い至らなくて、おそらくその場にいた若手のだれもが、私以外の多くの人が、それに思いついていたのだろうなと、でも私はあの病名はまったく思い出せなかった。ほかにもたくさんの思い出せないことがある。思い出せないことばかりだ。思い出せない直線の上をとぼとぼ歩く。ブログを書くとき、その直線に直行する面で切り出しをし、薄切をし、染色をし、下から光を当てて観察する、その切断面に私の「思い出す」という行動が、2ジョイくらいのスピードで充満する。