ここまでが展開図

近頃はSNSで返事をしていないのだけれど申し訳ないなあと思う。というか正確にはリプライを読んでいないのだ。もっというとリアクション欄を見ていない。アルゴリズムが動画ばかり流すようになるからなるべくTLも見ない、一日に何度か、少数の信頼できるアカウントがRTするネタを見て笑ってリポストし、そのとき自分でもなにか言うことがありそうならなにか言って、それでおわり。スマホのアプリ使用時間数を見たら、Xの使用時間が、LINEのそれよりも少なくなっていた。それを見た途端、なぜか、ぐっと副鼻腔が熱くなった。「壮年期の終わり」という言葉が思い浮かんだ。私は何かを折り返したのだなと思う。


私はLINEの友達がすくない。最近ちょっと増えたのだけれどたぶんそれでも30人もいない。そのLINEよりすくないとなるとこれはすごい。かわりになにか見ているものがあるか? 毎月買っている病理学の雑誌、あと、和文総説誌がふたつ、それと、延々続刊情報がおくられてくるマンガ、マンガ、マンガ、そして、とうとう、ジャンプをオンラインにした! 私はジャンプ購読をオンラインにした! 小学校3粘性のときから、なんだかんだで読み続けていた紙の雑誌を、あきらめた! 誤字があったけれど意味は合っている。あのころ私は世界に接地したのだ、ねばっこく、重力や風圧に逆らうようにして。ともあれジャンプだ。私は紙雑誌が好きだった。でも、やめにした。月曜日の早朝にコンビニに寄る生活が続けられなくなったのである。そもそもコンビニにまるで行かなくなった、ときおり、出張の際に、働き場所とホテルとの間にあるコンビニにタクシーを横付けしてもらい、お弁当とビールを買う、くらいのものだ。まさか、ジャンプを買わなくなる日がくるなんてな。オンラインのジャンプは1か月で990円くらい、じつは、雑誌を買うより安い。でも、あの、指にインクが付く感じ、ペン入れのあとの消しゴムが終わっていないばたばたした作家の初出原稿を、生々しく目に転写する感じ、それがスマホの画面になって一気にみすぼらしくなった。やはり私は何かを折り返したのだろう。


読みやすい文章への興味を失いながら、理想の病理診断報告書をしたためるための技術を毎日考えている。診断者の迷いを表出することに躊躇はいらないが、論旨が迷い道のようになってはいけない。病理医にとってのエクスキューズのための所見はいらないが、臨床医にとってのエクスキューズになりそうな素材は散りばめる。ダメ押しはするがしつこくはないように。どこに何が書いてあるかをすぐ把握できるようにしつつも同じことを同じ場所に書くことに恥じらいを持つように。交響曲的な文章を避け、協奏曲的な文章とする。ポリフォニックな解析の結果がモノフォニックに響き渡るように。日中、そうやって、ずっと考えて、夜更け、早朝、ブログに、DNAが同時多発的に転写されるような文章を書き、翻訳後修飾ですべてひっくり返すような気持ちで推敲をしてブログに載せる。どう考えても私は何かを折り返している。


山折り、谷折り、心を折って返して、カブトや鶴のように立ち上がってきたなにものか。折り返してから一歩ひいて眺めて、そこにある立体の、光源との距離、そよかぜのいたずら、ふわりと揺れて倒れて、おりがみがぱたりと倒れたときの、病的な弱さを思わせるあのうらさびしさに、私は人生を折り返すことの触感を重ね合わせている。