ネクタイを毎日するのは圧をかけるためだよ。若い技師に私はそう告げた。29歳のころ、前の職場に入職した私は、臨床のカンファレンスに出るにあたり、「若くて専門資格も持っていない病理医だからといって、なめられては困るから」という、至極まっとうでバカげた情念によって、毎日ワイシャツにスーツで、ただし首は苦しいからノーネクタイで出勤をしていた。馬子にも衣装作戦である。しかしこの作戦はそこそこ功を奏したように思う。札幌のいくつかの研究会では、お偉方に「たまにこういう、若くて何もできないくせにスーツ着てくるへんくつなやつがいるよな」という感じで覚えてもらえたし、症例に関して病理の解説をすると、会場からは基本的にタメ口ではなく敬語で質問が飛んできた。そこにスーツ効果がまったくなかったということはないと思うのだ。
5年も経たないうちに、スーツはジャケットに代わり、パンツはユニクロになったけれど、ワイシャツスタイルは結局そのまま続けた。ほかの職員は、技師はもちろん病理医も、たいていケーシーとかスクラブに白衣が普通だったけれど、私はがんとしてそういう医療着を着用しなくて、切り出しもワイシャツのままでずっとやっていた(後年、ISO認証的に問題となって、ビニールエプロンを上から付けるよう指導され、私はその言いつけを、実に従順に、耳に入れた)。
そんな日々の末の今回の転職にあたり、私は、あらためていちから、研修医とか専攻医の気分でがんばろうと思った。教科書を買い直し、事務用品などもきれいに揃え、デスクマットとかマウスパッドの類も吟味して、ボールペンも書き心地のいいものを複数購入した。メーカーの名前の入ったクリアファイルやボールペンやマグネットをひとつたりとも身の回りにおかないようにした。そして、ダメ押しに、毎日着ているワイシャツに、さらにネクタイを合わせることにした。
結果はかなりよい。おいまどき、廊下でも食堂でも講堂でも、ワイシャツにネクタイというのは目立つ。それはもちろん、「事務職員的」に目立つ。私は今の職場に来てから一度も白衣を着ていない。完全に事務のおじさんだ。医者とは思われない。その、事務のおじさんが、めまぐるしいスピードで歩き回って電話に出たり医者と立ち話したりしているのは、やはり目立つ。この目立ちがほしかった。このブーストを利用している。この圧が役に立つ。この自意識が、みずからの疲労をちょっとだけマスクしてくれる。
ほんとうはなんの役にも立っていないと思うけれど、私は自分でこのように、書いて、見せびらかして、そうやって自分をきちんと飾って、効果はどうあれ、結果はどうあれ、自分を想像の中で強くして、結果的になんらかのレジリエンスを獲得している。
昔、H2というマンガで、主人公の国見比呂が、幼馴染のひかりに、「比呂はね、たいしたことないときには大騒ぎするんだけど、本当に痛いときは何も言わないの」みたいなことを言われるシーンがあった。私はそれを中学2年生くらいのときに読んで、中二病的に影響を受けた。私もそうなりたいと思った。自分がちょっと大変なときには大騒ぎしてまわりにアピールして、こいつうっとうしいなと思われつつ、深刻な自体のド真ん中では逆に凪のような気持ちで泰然といることができる大人になりたいと思った。それがかっこいいと思った。
そうしていろいろと努力をした。
結果、中年も半ばを過ぎた今、私がどうなったかというと、周囲が凪いでいるときにひたすら大騒ぎして自己アピールをし、周りが本当に大変なことになっているときにはイヤホンなどしながら静かに自分の仕事を片付けるという、表現のための語彙はあらかた同じなのだけれど、方向としては真逆の残念な存在になってしまった。そんなのに加えて、スーツで圧が増えるみたいなうそっぽいことを言って若い技師をまどわせているのだから、困ったものである。自分をこのように「困ったものである」と表現することで、逆に余裕のある大人のふりをするという、総体としてはすごく小さいことを訳知り顔でアピールする念の入れよう、執拗な自己形成、生存戦略、それでこうやってそれなりに暮らして人々から失笑されているのだ。あだち充のフィクションに影響をうけるとろくな大人にならないよ。