目の下のクマがひどいことになっているよ! と言われたがこの人はおそらくはじめて私の目元をみたのだろう。なにせ私は10年前から目の周りがひどいと言われ続けてそれを隠すために伊達メガネを導入したくらいの人間である。昨日今日できたクマではないのだ。赴任して、あいさつして、これまでやりとりしている間、じつはあまりお互いの顔をちゃんと見ていなかったのを、このたびようやく目が合うくらいの間柄になって、それでクマが目についたとか、まあ、そういうことなのだと思う。あるいは今年の漢字がクマになったから急に意識がそこに向いたとかいうこともあるかもしれない。
名状すると意識に浮かびやすくなる。「クロマチン濃縮した大型の異型細胞」と書くとクロマチンのことばかり気にするようになる。本当はゴルジのあたりもおかしいし、細胞接着にも異常があるのだけれど、そこの名前を呼びかけて、触りにいかないと、認識することができない。そういうことはある。呼びかけることでようやく実体化するということだ。私たちは常に、呼びかけ、呼びかけられるものである。声がやむと存在は消える。物が来たりて我に声かける。
目の下のクマからみなの意識を外すためにどうしたらいいかなということを考える。まずは小刻みに振動することである。フェイントだ。ピボットを取り入れてもいいだろう。利き足と反対側の足を用いるのがコツである。あとはマジシャンのテクニック。見てほしくないところから目線をはずすためには、ほかの部位を強調するような動きをするといい。たとえば手、指、あるいは膝あたりが踊るようにする。首から上は凪。白鳥は優雅に見えるけれど、あれ、じつは水面下では多動なんだよ。今年の漢字がクマになったのは本当に迷惑である。そういうことをするからみんな余計にそういう一年だったと思ってしまうではないか。
ある病院の、臨床の依頼書のコピペがだいぶひどいことになっている。ないものがあると書かれており、やっていない検査をやっていると書かれている。病理に興味がないのだろう。あるいは自分に興味がありすぎるのか。視線のフォーカスがどこにあっているか、というのは大事だなと思う。もちろん、みな、興味関心のコアは自らの心にあってよいのだけれど、内向的な目線にも被写界深度というものがあって、フォーカスを合わせたところだけがくっきり見えるというわけではなく、その前後がある程度、同時に見えてくるというのがふつうのカメラであろう。物撮りのときのF値の低い、ボケでバエなカメラばかり使おうとするから、自分以外のすべてがボケて印象的な絵面になってしまい、他者に興味が持てなくなる。自分で書いて送ったばかりの依頼書を見返すこともしなくなる。インスタ慣れした臨床医たちの依頼書はクソである。そこから元の画角や対象を想像し、あるいは実際に聞き取ってしらべて、彼我のあいだの断絶を埋めにかかる。そういう作業に時間をかけている。そういう作業が嫌いではない自分がいて苦笑するほかない。「●●病変はあります・ありません。〇〇検査を施行しました・は未思考です。」このように書かれた依頼書を読んだときにはさすがに苦笑したものだ。そんな餌で俺様が釣られ