真後ろから見える毬栗頭がときどき揺れる。頭には大きめのヘッドホンが覆いかぶさっていて彼はおそらく、自らの、声帯の震えが鼓膜に届くかのような猛烈な咳の、音を自らは聞いてはいないのだろう。私はマスクをしておいてよかったなと感じる。もうすぐ年末がやってきて、両親をはじめとする多くの人間に会う。その前に、こんなところで、こんな咳をもらっている場合ではない。
タイムラインはてっきりM-1の余韻にひたっているのかとも思ったが、いいねやRPの挙動によって調教されたアルゴリズムはなぜかピン芸人の孤独な活動ばかりを提示してくる。AIがありとあらゆる購買行動を、本人の性格や行動や趣味嗜好などを把握した上で完璧に提示してくるから、広く告げるという意味の広告はがらりと様変わりするだろうと、さとなおさんは書いていた。それはたぶんそうなのだろうなと思う。ただ、そうなるのは来月とか来年のレベルではないのかもしれないなと思った。過去の学習をいくら積み上げても諸行無常の先を予測できるわけではなく、生々流転に揉まれて流されていく私たちの都度の気まぐれを、仮にAIが予測して最適解を叩き出してきたとして、それは私にとって果たして魅力的なものになりうるのだろうか。
雪原の向こうに白しか見えない。ケント紙のような空。薄く灰色を塗った。大きな仕事が待っていて、私は英語がしゃべれず微分方程式も解けずPythonも扱えず政治家とのコネもないのに、こんなところにいてよいものかと、網膜に白を転写して細胞診で観察をはじめる。良性。良性。良性。
ゲラをずっと読んでいる。すごくおもしろい。自分で書き上げなければいけない原稿の締切が1か月後に迫っていて、私はそれをまるでうまく書けないでいるのだけれど、人の話を聞いてまとめたこの、趣味の延長のような本のゲラがおもしろくて、義務をとろけさせて権利をふりかざす若者のような不安な笑い方をしてしまう。『がんユニバーシティ』という名前の本なのだ。17名の方々を架空の大学がんユニの教授に見立てて、私はそのいち学生として彼らの補修を受けに行く。通り一遍のQ&Aにもそれぞれ異なる返事。ダイアログがおもしろい。説話をいただくつもりが対話になってしまっているのは私の編集能力の低さ故だ、笑って見逃してほしい。ゲラをひたすら読んでいる。本当におもしろい。みな、私より大きな仕事を成し遂げてきた人ばかりで、そのような人々の歩んできた歴史、思想、そういったものをじっくり、つくづくおもしろいなあ。
私は大きい仕事がしたいわけでもできるわけでもない。ただ、連なりの中で、分担して、人が大きな仕事をする手伝いくらいはしなければいけない。そういったものから目を逸らさないようにするための、眼差す力と、震えずに立っているだけの体幹の筋力、だけは筋トレしておかないとな、ということを思う。近頃の私は筋力を失いすぎて、これまで着ていた服がどれもぶかぶかになってしまった。買い直す必要がある。AIを捨て、気まぐれに身を委ねながらの試着室。