食道はどうした

『胃と腸』という雑誌があって、小学生くらいにこの雑誌の話をすると40%くらい爆笑され、60%くらい「は?」って顔をされるのだけれど、これを毎月読んでいる。内容はときどきおもしろい。わりとつまらないこともある。とっくに知っている話もあるし、なんだか古いなって感じる話も載っていることはある。でも、毎月読んでいる。執筆者たちの1/3くらいは、顔と声が一致する感じなので、読んでいると勝手に音で聞こえてくる。

原稿はいわゆる「依頼原稿」だ。体裁は論文なのだが、編集委員とよばれる人たちが、すでに何かを成し遂げた人や、その弟子たちに、立場と原稿料とを渡して、その業界のトピックスを書き起こしてもらう、というものなので、査読が入るとはいえ学術論文とはちょっとニュアンスが違うように思う。

口さがない人々には、「日本語総説なんて読むだけ時間の無駄」と言われたりもする。ただ、「消化管を専門とはしているけれど、消化器内視鏡医でもないし、外科医でもない人間」である私にとって、母語で隣の領域のニュアンスを定期的に「語られる」場があるというのはありがたい。「事実」(笑)を知るのは大事だが、「事」が実際にどのように語られているのかを知るのも大事なのではないかと思う。


というような私のスタンスは過去にも書いたことがあるのだけれど、今日はこれを前置きとする。胃と腸を読んでいたら気になる記事が出てきた。重症の大動脈弁狭窄症(心臓の出口のひとつが狭くなる病気)を持っていると、胃腸からじわじわ出血することがあり、心臓の治療をすると胃腸の出血もおさまる、というのだ。

https://www.tohoku.ac.jp/japanese/2023/10/press20231019-01-catheter.html

2023年の記事だから、たとえば心臓畑の人とか、消化器内科医などはとっくに知っている話なのかなとは思う。しかし私は知らなかった。病理医は手術や検査などで「とられてくる身体の一部分」を見るのが仕事の大半であるが、その一部分というのはすなわち「細胞」のことであって、血液とか画像とかはあんまり見ない。だから、心臓の調子がどうとか、血管の出口(だか入り口だか知らんが)の狭さがどうとか、血液の濃さがどうとか、中にふくまれているホルモンやサイトカインがどうとか、生化学的検査がどうとか、血が出て止めましたとか、傷がひらいて閉じましたみたいな話をあまり通過しないまま日々を過ごしている。だからこの、「心臓の病気をもっていると胃腸からじわ出血する」という話には、日頃まったく関わることがなかった。

心臓と胃腸だ。関係あるといえばある。それはそうだろう。胃腸だって血がめぐっているのだから。しかし、心臓の出口に異常があると胃腸から出血するというのは、私にとっては、たとえて言うならば、「首都高で渋滞が続くと群馬県の農村でバイクが田んぼに落ちる」みたいなニュアンスなのである。そこはさすがにつながらんでしょ、というくらいの精神的な距離がある。


話をじっくり読んでいくと、心臓の出口の部分で交通渋滞が起こるとき、止血の機能がそこで異常にはたらいてしまって、血中のフォン・ヴィルブランド因子がたくさん消費されることで、全身の出血傾向がじわりと上がる、という話がまず出てくる。でも、それだけで話は終わらずに、小腸などの粘膜に「血管異形成 angiodysplasia」と呼ばれる異常な血管がたくさんできてしまうというのだ。ここが、スッとはつながらない。さきほどの例え話でいうと、「交通課の警官が首都高にたくさん駆り出されて人員が不足すると、田舎の農道の舗装がおかしくなって獣道がたくさん増える」みたいなことになっていて、えっ、それは警視庁交通課の管轄じゃなくて国土交通省じゃないの? と疑問に感じる。


研究は当然今も進んでいるし私はそれ以上の話をまだフォローアップしていないのだけれど、血管というのはけっこうホットな話題である。世界的にはずっとホットなのだろうが、私、あるいは病理医にとっては、この10年で急に盛り上がってきた話題なのだ。なにせ、血管というのは顕微鏡でみるのがむずかしい。塊状のものはナイフでカットして断面をみるといろいろ情報が増えるのだけれど、糸状というか管状のものは、ナイフで切ると「輪っかになった断面しか見られない」のでかえって情報が減る(気がする)。まして、血管がにょきにょき伸びたとか縮んだとか分岐を増やしたみたいな話は、断面の観察では一番検討がしづらい話題なのだ(盆栽の枝の美しい張り方をしらべるのに、枝を切ってはしょうがないだろう?)。


なにをいいたいかというと、私はぶっちゃけ、病理医という立場で、心臓関連の話題にたくさんの労力を注ぎ込もうとはあまり思わないし、消化管の病理は得意だが消化管出血は「私とは関係なく臨床医のみなさんがんばってください」という立場であった。しかし、こうして、2年半以上遅れてではあるけれど、そういった「あまり自分が明るくない領域の話」を斜め読みすることで、「あっこれ俺も興味あるな!」という、心の中で興味がじわじわ育つような体験をできているのはひとえに、「日本語の総説で、自分の興味が微妙にかすりそうでかすらない領域の話を気軽に読める」からなのかなと、まあそういう言い訳をしながら、本当はほかにやるべきことがたくさんあるのに今の自分と直接は関係しないような話の書かれた雑誌をもくもく読んでいる。