今季最長最強寒波、というフレーズはおそらくリズムで決めたものであまり深い意味はないんだろうな、と思いながら凍えている。暖房を焚いても焚いても部屋が暖かくならない。なんなんだこれは。もう2時間くらい暖房を付けているのに。ひさびさの体験だ。なぜ今年に限って……と思ったが、よく考えると、こんなに長い時間家にいることがめったになく、室温の移り変わりを把握できるほど部屋で過ごすことがないからではないか、という点に気づいた。事象のめずらしさというものは分子だけではなく分母もみなければ判断できない。今週、私はわりと仕事がなくて、すぐに帰宅して念入りに料理をしたり、ゲームセンターCXの動画を見たりしていた。今の職場にうつってからははじめての、だらけた数日を過ごした。理由はあきらかで、正月以降のローテ(仕事のわりふり)が軽かったからだ。学生実習がある週は仕事は軽めになってます、と説明され、はあそんなものかと思って受け入れたのだが、なんのことはない、学生実習というのは時間こそとられるものの別に精神的に大変なわけではないので、学生実習の準備にしても当日の目配りにしてもほぼストレスなく無事終わってしまい、結果として診断の割当がただ軽くなっただけだった。そのぶん、抄読会のセッティングだとか論文の執筆だとかゲラの手入れだとか講演プレゼンの作製だとかをやればいいのだけれど、「この先忙しくなるだろうからなるべく今のうちに……」というノリで、年末にほとんど寝ずにあらゆる仕事を早回しでやっつけてしまったので、ぶっちゃけ、締切が設定されていない原稿くらいしかやることがない。慎重過ぎる保険の書け方が仇となったかたちだ。仇? 逆か。仇ではないか。でも、なんか気持ち的には仇だ。こんなに余裕が出るならあのときあんなに必死でやらなくてもよかった。でも、今がこうしてラクになるということは予測はできなかった。早め、早め、念のため、先回し、先回り、そうやって安心をリボ払いみたいに小出しに配置して、結果、一括で払う何倍もの額を失っている。私は臆病だ。遅刻しないために30分前に待ち合わせ場所に到着しておこう、30分前に着くためには何分の地下鉄に乗ったらいいかな、なるほど、じゃあ念のためこの1本前の地下鉄にしよう、だったらこの地下鉄にのるためには何時に家を出ればいいが、途中なにがあるかわからないからさらに少し早めに家を出よう……そうやって結局70分前くらいに待ち合わせ場所についてしまう。近場の喫茶店を探してうろうろするのだけれど、20分くらい歩いて探して、ここぞという喫茶店を見つけたはいいが、入ってコーヒーでも頼んで出てくるまでに15分くらいかかったらどうしよう、それだと30分前に待ち合わせ場所に到着するのが難しくなるかもしれない、だったら缶コーヒーでも買って待ち合わせ場所で佇んでいたほうが気が楽かもしれないな。私は臆病だ。そういうふるまいをあらゆる仕事に対してもやってしまう。スケジュールに対してバッファを設けるということは、いいことばかりではない。そういう時間の組み方をすると、必ず、「安全のためのゆとり」の時間がそこかしこに発生する。15分とか、1時間とか、2週間とか、3か月といった単位で私は先回りをするから、結果的に、それらの時間が少しずつ余る。その余った時間はあくまで「まさかのときに備えるための時間」なので最初からあてにしていない、それ以外の時間で猛烈に働くわけだ、すると、いざ、それらの「あそび」の部分が予定通り余ったとき、そこは死腔のようになってしまう。綿密な予定を立てていない時間に、計算づくの仕事をあとからはめ込むのは難しい。クリエイティブなことに使えるほど潤った時間でもない。こうして私は人生の中に「のりしろ」として機能しない部分をたくさん有するようになる。イントロンだなと思う。とはいえ、イントロン由来のmiRNAみたいなものもおそらくは発生しているので、それは私という個体が進化の過程で落ち着いた、エネルギー安定プラトーのひとつの形ではあったと思うのだけれど、それにしても、通り過ぎたカレンダーを読んでいると、スプライシングされた日々の多さに頭を抱えることになる。
国がんの高阪先生がスプライソソーム阻害薬の夢とその実現にかかわる道程のことを語っていた。スプライシングってやっぱ、介入できるよな、とくにがんの治療においては。でもそれが正常であるかがんであるかをどうやって見分けるんだろう、みたいなことをずっと考えていた。