しょしゅーる

ソシュールを勉強したらいいんじゃない? うん、そーしゅる! とはいかなかった。記号学に興味はあるのだがソシュールを念入りにとりあげる人の物言いがあまり頭に入ってこない。

ぼくの前提知識が足りないというのもあるかもしれない。いや違うか。先にソシュールそのものではなく、ソシュールを引き取りながら何事かを言った人の話をぽつぽつ読んでしまって、前提ならぬ後提知識がぶかっこうに大きくなってしまったために、ソシュール本体にたどり着く気分が削がれてしまっている。

孫文献ばかり読んで元文献にあたらずに論文を書く後期研修医みたいな偏った理解だ。虚心坦懐にふるいほうから読めばよかったなと思わなくもない。けどそれは今だから言えることだ。読みたい本の順番をうまくコントロールして思索の順路を正しく辿れた自分が過去のどこかにあり得たとはまったく思わない。

そのうちどこかのタイミングでポカンと読むだろう。そのときはもっといろいろ目配せできる自分であるといいなと思う。


言語の役割についてあいかわらず毎日考えている。といっても、言語学というおおわくに惹かれているわけではなく、「病理診断という名づけが医療を揺さぶるとしたらそれはどういう揺さぶりなのか」という疑問にとりくむにあたり、名づけの仕草にまつわる語彙を増やしたい、というモチベーションで言語ならびにその縁辺のことを考えている。


先日萩野先生に教えてもらった本、『現代作家100人の字』(石川九楊)がとてもいい。新潮文庫は再販しないのだろうか。古本でホイホイ買える。書家である石川九楊は、ほぼ日のサイトで「おちつけ」の掛け軸やグッズを売っていたことがあり名前を覚えていた。

https://www.1101.com/store/ochitsuke/goods/index.html

谷崎潤一郎、吉川英治、深沢七郎、司馬遼太郎、吉行淳之介、三島由紀夫……。書家ではなく作家たちが揮毫した色紙や碑文、篆刻などを小さい写真で紹介しながら、その字体(文面というよりももっぱら字体……なのだがときに文面とマッチしたりずれたりする)について短く語っていくというもの。萩野先生が枕頭の書と述べた理由が大変よくわかる。ひとつひとつ、喫煙のように印象と抵抗と不整脈と安堵を残していく感覚が美しい。その中にこのような文章が出てきた。

”一般に造形に過ぎないと考えられている文字の書きぶりには何らかの形で言葉が比喩として定着している。この言葉からくる力、言葉の形象喩を〈言語形象〉と命名すると、書は〈言語形象〉を核に、その周囲を〈純粋形象〉によって包まれた表現であると定義できる。”(62ページ)

あっと思って心の中でさらに黙り込んだ。石川九楊は、島尾敏雄の色紙を前に、このようなことをいう。

”書の構造はこの地球の構造に似通っている。中心に超高温、超高圧の核(意識)があり、その周囲をマントルのように言葉が形に化成した〈言語形象〉が、さらにその外側の外殻、表面を〈純粋形象〉層が取り巻いている”

すなわち漢字やかなからなる書においては、象形文字をほうふつとさせる「意味から生み出されたかたち」と、字形・空間・バランス・筆運びなどが醸し出す「絵画的造形」とが内外の構造として存在するというのだ。活字ばかり扱っていると思い至らない思考かとも思ったが、吉行淳之介は活字になった紙面をイメージしながら原稿を書いたというから文字と目との距離が密接な人間たちの思考というべきなのだろう。

書をたのしむためには西洋絵画のような見方だけでは足りない、というかそれとは別様の味わい方があるようだということも腑に落ちる。そしてぼくは、最終的に俵万智、ビートたけし、花森安治、そして糸井重里までをもとりあげるこの本をねっとりゆっくり読みながら、人がなにかに名前をあてて、それを書くという営為の、「書く」の部分をこれまであまりきちんと考えてこなかったな、と思ってほくそえんだのである。病理診断だって書く/描くものだからな。なるほどな。ああそうかなるほどなあ。