開けっ放しのカーテンから差し込む光で目が覚めた。シャワーを浴びて髪を乾かし、着替えを済ませて部屋を出ると、ドアの横に新聞が挟まっている。ちかごろはなかなか見る機会がない紙の新聞だ。地方のホテルでは今もこうして新聞の配達がサービスに含まれていることがある。その分割高になるのでは、と思ったこともあったが、はっきりいって新聞がどうとかコーヒーがどうといった値段よりもはるかにインバウンドの影響のほうが室単価に影響している昨今、ちょっとノスタルジーすら感じる紙の新聞を置いてくれるのは(仮に室料に反映されているとしても)ありがたい。
朝食会場から帰ってきて新聞を掴んで部屋に入る。一面記事では地方の交通にかんする紆余曲折を取り上げている。昨日はアメリカの大統領が無茶を言っていたはずだが、それが一面ではないのだなと感じる。SNSで大騒ぎしている医者の不祥事については一切振れられていない。SNSで大騒ぎしている芸能人の醜聞についてもまるで出てこない。部屋に持って帰ってきたコーヒーを飲みながら、新聞をめくる。反体制の側に多少なりとも偏った論調をいちいち鵜呑みにしようとも思わないが、しかし、かつてのようには「だからメディアはゴミなんだ」と断じる気が起きない。今の新聞の影響力なら、「こういう立場」にすがりたい人のための灯台もしくは紐帯の結び目として、悪いことをしない程度に、派手な露悪ではない形でやってくれれば、そこまで悪質とも思えないし、それはある種の福祉でもあるかもなと、そういう受け止め方をしている。
支持はしない。しかし、理解はする。今日の私はそういう感じだ。
ここからどちらに向かって歩いて寄っていくのかはまだわからない。
スポーツ欄を見ると、プロ野球やサッカーについて、地域出身の選手をちょっとだけ多めに取り上げている。30年前、スポーツ報道といえばテレビは巨人とヴェルディ一色で、アンチ巨人・アンチヴェルディなんていう流れも生み出したものだったが、いまや国民がそれぞれ全く違うジャンルの違う団体を推していて収集がつかない。突き抜けた柱がないとジャンル自体が衰退する。どこの世界でも起こっていることだ。国民の30%くらいが巨人に興味のあったあのころが、じつは一番話題も尽きなかったし、アンチはアンチで楽しそうだったなと、ないものねだりのように懐かしんでしまう。とはいえ、Netflixなどで昔のバラエティやドラマを見ると、あまりの画質の低さ、出演陣の肌の汚さ、歯並びの悪さに一瞬気後れしてしまう自分がいて、そういうのがどんどんきれいになっていった今の世の中のほうが、かつての私たちから見たらずっとうらやましいはずなのに、今この「うらやましいの湯」に浸かっているはずの私たちは少しのぼせて、さっさと上がって、逆に湯冷めなどしてしまっているのだから、語るに落ちる。
たまに目に入る。巨悪と戦うことに人生を捧げている人。シュプレヒコールを抱いて眠る人。昔も今も変わらずいるなあと思う。そうだなあ、昔も今もというのはすごいことだ。いろいろ変わったけれどそこは変わらず残っているのだ。本人たちはおおまじめに不幸せを暮らしているのだが、その姿がときどき幸せそうに見えてしまう。でも、そのことを本人たちに告げると、とても怒る。それでなくても始終怒っている人たちだ。「なんだか、そんなに怒れて、ある意味、幸せそうですね」と声をかけた人間も殴り飛ばすくらいの体力と腕力があって、なんなら脚力を飛ばしてこちらまで走ってきて殴る。
どちらかに偏って暮らすことを選ぶ人間は、とにかく始終怒っている。そして、その怒りにすべて大義名分があり、聞いてみればたいてい理路整然としている。だから、「何をそんなに怒っているの」とたずねると、怒りの理由をとうとうと語りだす。しかし「何をそんなに」というのはじつは理屈を尋ねているのではない。程度の過剰さをたしなめているのだ。けれどもそのことにはなぜか気づいてもらえない。そのニュアンスはなかなか伝わらない。
ずっと怒っている人たちの理路は、まるで大通りだ。脇道は少なく、込み入った道もほぼなく、あたかも北海道の田舎道のようである。まっすぐ高速で飛ばしている。信号もない道だからスピードを8キロくらいオーバーしていても本人たちは罪の意識などない。はたから見ているとなんだかずっとアクセルを踏みっぱなしなのが危なくて怖いと思うのだが、それが交通ルールにめちゃくちゃ違反しているかというと、しているのかもしれないがまあ普通はお目こぼしされるレベルだから、むやみに止められない。そして、それは大通りでしかないのだ。古今東西、「大通り」が町の象徴として祭り上げられることはあれど、「大通り」イコール町の姿だとまで言い切れることはなかったはずである。小道はどうした。迂回路はないのか。生活道路の人の姿をどう思う。そういったことが抜けている「整然とした理路」というのはつまり「モデル」であり、「近似」であって、どれだけ筋が通っていても筋しかない。身(実)がない。複雑さがない。あわいがない。1+1=2でしょう、何か間違っていますか? ええ、計算は合っていますが、ここは小学校で、私たちはさんすうだけではなく、こくごもしゃかいもりかもたいいくも、やっていく必要があるのです。
ずっと偏って怒り続けている人たちは、怒っているときの自分が一番充実しているというのを理解している。そして、そのことを周りも気づいている。だから、「その人が幸せならばよいだろう」と思って、その怒りを必要以上に抑え込むことはない。そういうところが、「幸せそうに見える」一番の理由だと思う。愛されているということの証だからだ、ずっと怒ったまま人生を歩んでいけるということは。ただし、その愛は、往々にして、本人の認識の表面には刻印されない。
怒る立場に向かっていけた人たちの決断、執着、こだわり、そういったものはおそらく、そちらを選ばない私たちの立場からは、周囲のあれこれを含めて総体で考えると、どことなく「幸せそう」に見える。これは揶揄ではない。叱責でもない。尊敬ではないかもしれないが、尊重はする。支持はしないが、理解はする。実際、過去と同じくらいに、ちょっとうらやましいなと感じることがある。そして、過去と同じくらいに、私がそちらがわにいる様子は、想像がつかない。私はそうまでして「幸せ」なほうに向かうことはできない。
新聞を閉じる。誰もが新聞のまねごとをするようになってから何年経ったろう。まだ、15年といったところか。個々人がそれぞれの個性にのっとって語ったり、冷笑したり、沈思したりしているうちに、私は「新聞を作ることで商売をして飯を食っている人たち」が今どうしているのかなということが気になった。まちづくりに関するこの記事を書いた記者、なかなか、広く澄み渡った視野をお持ちで、文章も丁寧で、この地方新聞社はいい記者に給料を払っているなあ。大通りを走ってりゃ記事になるわけじゃないと気づいて、細かい道を丁寧に掃き掃除するような記事を書いている記者たちの横で、正義の仮面ライダーたちがマフラーから規制前の量のCO2入り排気ガスを大拡散しながら猛スピードで国道230号線を中山峠に向かって疾走していく姿が見える。