萩野先生がThreadsに三木成夫の書影をポンと出した。なるほどなるほどおもしろそうじゃんと思って見に行くと、単行本は品切れ重版未定、でもKindleがあって、さっそく購入。『いのちの波』という本。読んでいるうちにひっくりかえってしまった。
”ギリシアの哲人ヘラクレイトスは「万物流転」といった。森羅万象はリズムをもつの謂である。ドイツの生の哲学者ルードヴィヒ・クラーゲスは、このリズムを水波に譬え、その波形のなめらかな“更新”のなかに、機械運動の“反復”とは一線を画したリズムの本質を見出し、やがてそこから「分節性」と「双極性」の二大性格を導き出すのである。”
やめてやめて! その話しないで! 今似たようなことをもう少しあやふやに書いてる最中なの! アアッ、上位互換やめて! イヤダーッ! 口は嫌がっていても目玉は正直なので、すいすい読み進めてしまう。当然の帰結として、さっきまで書いていた原稿を8000字くらい消去するはめになった。ざんねんだ。ああざんねんだ。そんなに悪いことを書いていたつもりはなかった。でも、ここまで書かれちゃってると知った以上、あとから述べる者としては、もっと丁寧に書かないとだめになっちゃうんだよな。先行研究の検索が甘いとこういう悲しい事故が起こる。
いやあそれにしてもびっくりした。最初はまあ、なんか、よくある学者エッセイかな、と思っていた(萩野先生が出してくるんだからそれで済むわけはないのに、バカだ私)(最後の「バカだ私」はなるべくしっとりと、10代後半女性の声色で読むといい)。しかし母乳のあたりからえっ何この本、となった。肌が粟立つ。そして、おそらく多くの人が衝撃を受けたであろう、胎児の発生初期の形象描写、これが……すごい。これは……すごい。形態を言分けするとはこのこと。感服。各種の文庫にも扉絵として採用されていることに、納得。「不世出の解剖学者」、さもありなん。「さもありなん」を見るたびにサモア諸島のことを思う。ポリネシアの記憶が私のからだの中に残っている。ココヤシ。ジャングルジャングルジャングルジャングルジャングルジャングルジャングルジャングル。ヤシの木一本、身が二つ。それちんちんじゃん! ギャハハ! ギャー! チー付与の例の笑い方って幸せな小学生そのもので、見てると涙が出てくる。昔のTwitterってよかったよな。老害の緩和ケアみたいな文章にシームレスに移行してしまった。緩和休題。
人間の胎児が発生の途中で動物の系統樹を魚類から順番になぞっているという話は、令和の今はかなりこすられていて、最新の発生学や比較解剖学ではむしろ反発すら生じ始めている。そういう安易なストーリーに飛びついて当てはめるのは学問ではないよ、くらいのことを言う人もいる。けれど、このナラティブが人気になり人口に膾炙した理由の一端が見えた。初期にこの話をした人間が、強すぎたのだ。三木成夫の本が書店にしれっと並んでいたらそりゃあ驚愕するだろうな。
ブン。スマホが鳴る。また誰かFacebookのメッセンジャーでも送ってきたのかなと思ってスマホの画面を見ると、「XPERIA」がキラキラと光っていて、何もしていないのに勝手に再起動などされていたのだと遅れて認識する。「なななな、何勝手に電源切ってんだよてんめー!」ぼそっとつぶやいたリズムに聞き覚えがある。何勝手に電源切ってんだんてんめー。なにかってにでんげんきってんだんてんめー。たららったんたんたんたんたんたんたんたー。M-1の例のアレだ。笑ってしまった。なんでこんなものが私の基礎にしみついてんだ。まあリズムってのはそういうものだ。リズムがいいと思ってしみつくんじゃなくて、最初から体にあったリズムというものがあって、それに合致したものが世に受け入れられる。こういう話をしていると、ゲーテやらカントまでさかのぼらないといけなくなるわけだが(ちょっと話がずれるけれど私はアリストテレスを読んだほうがいいと言われて何冊か読んだりもした。エイドス! ギャラドス!)、なにか、その、本能に刻印された魂の線条痕を、轍を乗り越えようとするオフロード車のように、めりめり乗り越えてきた「はみで」の部分を拾い上げるということ、そっちのほうに私の興味は偏りはじめているし、そもそも病理学と解剖学の何が違うかというポイントでもあると思うのだ。……みたいなことを、さっきまで書いてたのに、消さざるを得なくて、あー、あれはもったいないことをした、いい本を読むとまれにこういうことが起こる。望むところではある。