ぬかるんだ私道をめっきり見なくなったが先日ひさびさにドロドロの道を歩いた。雪解け、無舗装、マンホールがなくなっていて、申し訳程度に硬めのゴム製かなにかの板が渡してあって、しかし歩行者向けに穴があるから注意しろといった看板の類は一切ないので親切なようで自己責任論まっしぐらでもある。土臭い路面にはSUVの轍まみれ、落ちているビンのかけら、タバコの吸い殻。そんな道を、ちょっと入り込んでいった先に集合住宅があって、学生がたくさん住んでいるようであった。管理費や共益費はどこに消えたのだろうと思わせるに十分な迫力の古びたゴミ捨てスペース。垂れ下がる電線。建付けの悪そうな共同玄関。窓にはいずれも昼間からぴたりと閉じきったカーテン。
私もかつてこういうところで暮らしていたと思う。ただ記憶はだいぶあいまいになってしまった。
帰宅してからこれまで住んだ住所をひととおり、思い出せる限りで検索して、Google mapで見てみた。前の妻と結婚したあとにはじめて住んだマンションを除くとほかはすべて建て替えられていた。アパートだったものが雑居ビルになったり中層マンションになったり、とにかく、元の痕跡は跡形も残っていない。
『九龍ジェネリックロマンス』の序盤に出てくる物件のいくつかがやけに印象的だなと思ったら昔私が住んでいた部屋にちょっと似ていたのだ。ただ、ひとたびあれを読んでしまったおかげで、記憶が一気に上書きされてしまって、かつての部屋を思い出そうとしても九龍ジェネリックロマンスの絵のほうが勝手に思い出されてしまう。記憶までもが建て替えられていく。
TBSラジオ「東京ポッド許可局」の中でサンキュータツオさんがアニメソングを紹介することがある。先日の番組では「ハクション大魔王」のOPテーマをかけていた。「は、は、ハクショーン大魔王~」で有名な例の歌、もちろん記憶にあるのだけれど、車を走らせながら1番、2番と聞いていると、覚えていたメロディとはどことなく違う。しかし、その、もともと覚えていたメロディは、たった今聞いている「本物」によって次々と上書きされていって、放送が終わった今、もうかつての記憶の中で流れていたメロディを思い出すことができない。
現行のアニメ・サザエさんでは、波平の声はコナン君に出てくる目暮警部の人が担当しているが、私はまだ、ナウシカに出てきてムスカにやられる将軍や、ハリー・ポッターに出てくるダンブルドア校長の声でしゃべる波平を思い出すことができる。ここはまだ、上書きされていない。逆に言えば、私の記憶も人生も、永井一郎ほどの存在感を私の中で示すことができていないから、あとからやってきた似て非なるエピソードに軽々と上書きされてしまうということなのだろう。