現実の夢

眠気が強いと手が赤ちゃんみたいにあたたかくなる。副交感神経がどうたらで血管が拡張してこうたらいうやつだと思われる。ただ、まあ、メカニズムはこの際どうでもいい。赤ちゃんの肌の暖かさをいきなり思い出す現象自体がおもしろいなと感じる。自らの眠気によって二十年近く昔の肌の記憶を直接思い出したことに関心がある。経過した時間と情景の明瞭さとの間に必ずしも比例関係が成立していないことに興味がある。脳内情報には、距離という概念や、中心・辺縁の区別が存在していないのだろうか。ふしぎだ。はるか昔の思い出を脳内再生するにあたって、「昨日のことのように思い出す」という表現があるけれど、私はむしろ、昨日のことなんてうすぼんやりして思い出せなくなっていることがほとんどだし、逆に「二十年前のことのようにはっきり覚えている」なんてこともあるので、「昨日のことのように」という表現は、一見誰にもわかりやすい直喩だなと感じるのだけれど、実際にはかなり的を外しているふしぎな軽口だ。エピソード記憶は、今日に近ければ近いほど解像度高く記憶されているというわけではない。昔だから遠いとか、最近だから近いといった関係が必ずしも成り立たない。それは、たとえば夢を見るときなどにより強く実感される。夢には前後関係が存在しないことがあるだろう。

文章やメロディのように、素因をひとつひとつ順番に取り込んでいくことではじめて厚みや質感を感じられるタイプの情報がある一方で、絵画のように複数の素因をほぼ同時に取り込むことで奥行きや肌理を感じ取れるタイプの情報もある。ただ、絵画の場合、視線誘導という概念があるように、ある程度、視覚の特性によって「見る順番」みたいなものが自然と生まれていたりもする。またYouTube動画やウェブマンガ『Vtuber草村しげみ』のように、映像・絵画的情報のガワをかぶりつつ実際には字幕・コメントの逐次読み上げがメインとなっているコンテンツもある。そういったものすべてに影響を受けるところの私は、日頃から、情報というものは原則的に脳内に列をなして順番に入ってくるものだという感覚を植え付けられているし、脳内に蓄積される情報には整列という概念があって順序よく仕分けされているはずだという勝手な期待を抱えている。ただそれは、全てにあてはまる原則というわけではないのだろう。たぶん、ある程度の、錯覚を含んでいる。

記憶というものは必ずしも時間経過を用いて解析すべきものではないのではないか。

現実に起こるできごとがあまりにも時間軸と照らし合わせやすいことばかりで、私達は何を語るにしても時間経過を大前提として論理を組み立てていくが、ほんとうはそういうものだけではないのではないか。

昔読んだマンガのセリフをひとつひとつ順番に暗証することなど私にはできない。ただ、いまこの瞬間に手元にドラゴンボール13巻をポンと置かれたら、ページをめくる「直前に」、初代ピッコロ大魔王が高笑いする目次の一コマと、私の脳でしっかりと閉じられた情報の引き出しにしまいこまれた「ふはははは……もくじだっ!!!!!」という写植の記憶との間に、光の筋が何本もぶっちがいになって、ダウンロード・アップロードの交錯が一瞬で起こって、ページをめくった「瞬間」に、三十五年前の読中印象があざやかに再現される。そこでいったんページを閉じてしまえば、じつはこれからめくっていくそれぞれのページになにを書いているのかなんて全く私は思い出せないのだけれど、いざ、目の前でページをめくりはじめると、ページがひっくりかえる「直前」もしくは「瞬間」もしくは「直後」もしくは「そのすべて
」すなわち「ページをめくるという行為の『厚みをもった今』のいずれか」において、ちょっと前まで何も思い出せなかったはずのコマ割り、構図、キャラクタの顔、セリフが、読んでわかるタイミングとは微妙にずれながら、なんなら少し先回りをするような感覚も含めて、脳内に展開されていく。この、「再読」の際に用いられる私の記憶システムは、どうも時間経過という常識的な錯視とは似て非なる形式で成り立っているように感じられる。


本を初めて読む「初読」のとき、私達は、自分の脳内にまだ存在していない字や絵を順番に取り込んでいく。それはどうしても時間経過とか因果のながれにしばられた情報収集となる。それは「すべてが一期一会である現実に順番に触れていく体験」である。しかし、再読のとき、蓄積されている脳内の記憶と照らし合わせながらの読書のときには、それは矢印で結ばれた一本道の理路にはとどまらない。時系列を越えた総体としての情報との照らし合わせによって、目の前にある情報が厚みや奥行きを増して脳内にふたたび飛び込んでくる。

どちらのほうが本来の脳のシステムに合っているか? まあ、合っている・ずれているという評価をしないほうがいいのかもしれないけれど、おそらく、再読という「時系列のしばりから開放された認知」のほうが、よりふくよかな情報にひたることができるだろう。

私は積ん読はしないし本棚もほとんど持たずに生活をしている。これからも積ん読はしないとは思うけれど、「初読をすませ、再読待ちとなっている本」を控えさせるための本棚は、やはり必要なのかなという気にもなってくる。時の流れにしばられた初読オンリーで本とのかかわりを終えてしまうことを、なんだかちょっともったいなく感じる。それこそ、夢のない話だ。

あるいは音楽というものも、曲の構成を熟知した状態で聴く、「再読」ならぬ「再聴」によって、はじめてそのおもしろみが感じられるということもあるだろう。順番などというものから解き放たれたときに、はじめて、私達の五感は本来の実力を発揮してくれるのかもしれない。ただしそれは現実を夢にしてしまうリスクを負っているようにも思う。