のび太のきもち

月光条例おもしろいな。はるか昔に一気読みしたけど、もう手元にコミックスがないからずっと読めないでいた。細部をわりと忘れているし、全体に流れている血潮みたいなものも忘れている。「こんなことあったっけ! すげえ!」っていうのと、「こんな感情になるんだっけ! すっげえ!」というのが交互にやってくる。いい読書だなー。記憶では、途中から内容がどんどんドライブするのだ、このマンガ、当時はすごくびっくりした。藤田和日郎作品ってそういうところある。今回もきっとまたびっくりできるだろう。

それにしてもかつての私は、きちんと最後まで読み切ったんだったろうか。ラストシーンをあんまり覚えていない。連載の途中に読んでいたような気もする。時期的には大学院のころだろう。なにかにかまけて、ラスト直前で読みきらずに終わってしまっていたのかもしれない。

今回はKindleでまとめて大人買いした。最終巻までしっかりスマホに入っている。次の出張の夜にでも一気に読み切ろう。たのしみだ。すごく。


たのしみをスマホに……脳内にストックしている日と、枯渇している日がある。今、急に隕石が落ちてきても、どこかあきらめてしまうだろうなという日もあって、そういう日というのは私が「読み途中のマンガを抱えていない日」である。そして今日、隕石が窓の外に見えたら、全力で「待って待って待ってせっかく買ったばっかりなの全部読ませて!」となって生命への活力によって私はおそらく隕石を打ち返すことができる。よく聽く陳腐なフレーズを借りれば「まだ死ねない!」というやつだ。私はたいていあまのじゃくだけれどこの「読みたいマンガがあるうちは死ねない」という気持ちについては素直にアグリーできる。アグリーできる文化。農協の職員だからね(アグリカルチャー)。

こんなブログを書きながら、さきほどからなかなか進まないプレゼンをちまちま作っている。頭の中ではもうできているのであとは作業だけ。しかし作業の最中に新しいことを思いつくので、走っても走ってもゴールテープが遠くに下がっていくような、残念駅伝アンカーみたいな状態。Ctrl+十字カーソルで写真を1ドットずつずらして合わせていく。病理写真の色温度を揃える。レイアウトを整える。デザインは見る人の脳に直接作用して、情報を仕入れる順番とか仕分けの効率にコミットする。自分がその日何をどうしゃべるかを考えて、それを邪魔しない配列に写真を置いていく。そうしないといくら流暢にしゃべっても聞き手の頭の中には何も残っていかない。そういう調整をずっとしている。正直つまらない。だって聞き手の頭に何かを残そうなんて土台むりな話だからだ。残そうと思って残るものではない。残るとしたらそれは私の後悔くらいのものなのだ。ともあれこういう調整作業、ちょっとだけ、AIにやってもらえたらラクなのに、と思う。でもAIにやらせるとどうせ最大公約数的な、ひっかかりのないプレゼンができてしまうんだろう。はっきりいってAIが作ったプレゼンって急激に「お里が知れる」感覚があってそれはそれでぜんぜんつまらない。できあがればいいというものではないのだ。苦労してできあがらないとおもしろくないのだ。

眠気が高まっていく。がくんと頭が落ちそうになる。すかさずパワポの保存を押して、へんなところを触ってこれまでの作業が消えないようにセーフティロック。半分夢のなかにいる。スマホを開く。仕事中だが、かまわない。月光条例を読む。マンガは不思議だ、今くらいねむくても、マンガを読んでいると眠気がいったん保留にできる。小説だとこうはいかない。YouTubeでも寝るときは寝てしまう。しかしマンガだと起きていられる。私は、仕事中にマンガを読む時間をはさんで、いねむりをふせぐという特殊な技術を用いる。マンガを読んで4時間が経過した。日付が変わったのでもうそろそろ帰ろう。結局マンガしか読んでいない。さっさと帰ればよかった。しかしマンガを読む前まで、私は、日付が変わるまで仕事をするつもりだったのだから仕方がない。パワポを閉じる。保存していませんがよろしいですか? はい。 えっ? なにを? ちょっと待って? なにかしていたっけ? さっき保存したっきりじゃなかったっけ? あわてて閉じたばかりのパワポをまた開く。どうも思っていたものと違う気がする。どこからが夢なのだろう。いったいどれが夢なんだ(ドラえもんのあれ)。