アニメなどを見ている。などってことないだろう。アニメを見ている。しかし記録の際に思わず「など」を書き込んでしまう。頭で思う先に指が書いていた。反射的にそこでニュアンスを一瞬弱めたのは、なんのためなんだろうと思う。
躊躇という行動に興味がある。
躊躇というのはすごくおもしろい反応だ。理屈が先行して躊躇することはめったにない。感覚的に、あっ、ちょっと控えようかなと感じるのが躊躇の本質だと思う。あらかじめこういうルールがあると自分を縛るわけでもなく、なにか大きなものに命じられて禁忌を設定するわけでもなく、「なんかここはちょっと踏み込んではいけないんじゃないかな」みたいな感覚に、斜め後ろに引っ張られるような感じで二の足を踏むのがまさに躊躇だ。
躊躇って画数が多すぎる言葉である。これに比べると安心とか確信なんてすごくシンプルな漢字でできていて、そのぶん、行動が単純なのだろうなということを考える。ここまで部首を重ねなければ伝わらないニュアンスが、漢字という枠組みの中でも設定されている、特殊な動きということなのだろう。躊躇というのは、いまいち「なぜそれがそうなるのか」を説明できない感覚がある。躊躇というのは本能との取引をするようなものだ。
だからすなわち私達は、躊躇が生まれた瞬間に、自分がなぜその引っ掛かりやブレーキを感じ取ったのかを細かく言語化してみればいいのだと思う。だってそこにはおそらく世の中でもっともたくさんの情報が潜んでいるはずなのだから。
そして私は別に情報過多の状態をいいことだとは思っていないのでそれほど躊躇を解像度高く解析しようとも思えないのであった。
異世界モノのラノベは令和の時代劇だなと感じる。設定はどれも似たりよったりだ。ダンジョンが多い。職業とかスキルという言葉が説明なしに出てくる。世の強くなりすぎた選択圧を通り過ぎて私のもとにやってくる作品はどれもストーリーテリングが一流で、通り一遍のテンプレ物語からは一線を画しているのだけれど、それでも、どこか髷物に近い安心感がある。勧善懲悪なのだろう。女性は死なないのだろう。主人公は強いのだろう。胸がすく思いをさせてくれるのだろう。設定はファミコン時代のRPGに多くを負っているのだろう。スピードは目にも止まらないのだろう。思考は常に多層化しているのだろう。そういったものが楽しくてけっこう読み漁っているのだけれど、スマホにKindleで似たような表紙の物語を大量にダウンロードしているある夜にふと訪れる躊躇がある。そのことを私は若干気にしている。
出張先でけっこうな量の病理診断をしていた。デスクには当地の技師さんが気を使って置いてくれていたお菓子が山積みだ。個別包装されたキットカット的お菓子やせんべい的お菓子を食べながら次々と診断を片付けていく。難しい診断がある、これは、大学院生くらいだとたぶん刃が立たないだろうなと思いながらそこそこの時間をかけて通り過ぎていく。躊躇が足りていない感覚があってぞわっとする。私はもっと躊躇すべきなのではないかという声がずっとアラームのように鳴り響いている。躊躇という言動をもっと大切にしたほうがいい。躊躇によって私はこれまで綱渡りをしてきたはずなのだ。