回廊

循環する回廊のくらがりの石畳をとぼとぼと歩いている。弯曲の外側にあるいくつかの扉をときどき開いて、石造りの小部屋に潜って本を読む。読んでいるうちに小窓の外がだんだんくらくなってきて文字が読めなくなるので、また扉の外に出て、小さなランタンのついた回廊を再び歩く。閉塞感がある。昼の日向にどこにでも好きな方角に向かってずんずん歩いていきたい気持ち、まっすぐ伸びて向こうが見えない一本道を猛然と走っていきたい気持ち。あるいは月夜にしらない町の路地をあてどなくふらふらさまよいたい気持ち。「私は自由に歩いていきたい」と、声に出して言い聞かせてみるのだが、結局私はまたなぜか回廊の徘徊に戻って来る。それが一番落ち着く。

最近はとんと見なくなったがかつてよく見た夢があって、印象的なので起きているときも何度か思い出しているうちに忘れなくなった。私は公園でひとり座っている。それを見ている私は地面に置かれたカメラのように低い目線で、かげろうがたつような蒸された夏の白い空の下に子どもの私がベンチに座って俯いている。私は怖がっていて、それは人のいない公園をおそれているのか、あるいは抜けきった白い空が怖いのかもしれないが、とにかく開放感がありすぎて怖いのだろうなということを私自身がよくわかっている。同じベンチの横に黒いコートを来た細身の男性、おそらく年齢はかなり上の、細身で背の高い男、現実に出会ったことのないおとぎ話の住人がやってきて、私に話しかけて肩に手を回して説得をする。シルクハットのような帽子をはずしたりまたかぶったりしている。私はその説得に圧を感じてさらに怯える。男の顔を見ないようにまたうつむく。そうやって地面ばかり見ているので、空がいつの間にかまっくらになって上から大きな黒雲が地面に向かって少しずつずり降りてくることに私は気づかない。蒸し暑いまま冷えていく。霧の山の中のように大きな黒雲が周囲のすべてを飲み込んで、細身の男、に肩を抱かれる私、は頭の先から順番に雲の中に取り込まれていく。「そのほうがよいのだろう」とあきらめているところでだいたい目が覚める。

居場所というのは閉塞を必要とする。それは周囲の人びとの声を遮断したいからだとか、誰にも見られない場所にこもりたいからといった、具体的な理由があって求めるものではあるのだろうが、実際、私はどうも肌からしみでる私の精のようなものや、吐息からもれる私の魂のようなものが、空気に溶けて薄まってなくなっていくのが怖くて、それで壁によって自らを閉じ込めたいと願っているのかもしれない。回廊のイメージ、公園の黒雲、いずれにおいても私は、閉じ込められることで自分がそれ以上すりへっていかない安心を得る。乱雑さによってすべてが混じってなくなってしまう雑な人類補完計画に対する根本的なおそれから「締め出し」によって私は逃げ出そうとしている。

インターネットブラウザをつかっていくつかの文章を書いてきた。今使っているこのbloggerが一番気に入っているのは、入力欄の四方に枠があることだ。noteのUIは開放的すぎる。どこにでも飛んでいけと言われているような場所ではおさまりが悪い。発想を四方に拡散させながら書くと自分が少しずつ薄まっていく。それよりも潜ったり囲ったりすることで内圧を高めていくやりかたのほうが、私は、安心だ、それはおそらく自分を自分のまま自分以外のものに昇華できないやり方であって、何かをつくりだす行為としてはあまり賢い方法ではないので、人にすすめるつもりは一切ないのだが。