多忙なのに多忙を書くということ

さっきまでここには自分がどのように忙しいかを具体的に書いていたのだが、「こんなことを書けるくらいにはヒマなんじゃん」と思えるシロモノになったので消した。さすがに、それくらいの恥じらいは持っている。

もっとも、ブログを書いていることがヒマであることの証明にはならない。どれだけ忙しくてもブログくらいは書ける。文章に限らず、スマホゲームであるとか、動画視聴であるとか、いねむりなどにも応用が利く話だ。習慣としてこなせることなんていくらでもある。シャワーを浴びることでもいい。観葉植物に水をやることでもいい。株式投資でもいい。タバコでもいい。「タバコを吸っている社員と吸っていない社員で給料が同じなのは許せない」みたいなことを言う人もいるが、それはまあ、結果で評価すればいいので別の話だろう。「あの社員はすぐタバコ吸いにいくし仕事もあまりできない」という悪口は雑だ。タバコを吸う人間が嫌いだという話と、仕事ができなくて困るという話を一緒にしてしまっている。あまり論理的だとは思わない。とはいえ私は、仕事においては「結果」を評価するシステムと「過程」を評価するシステム、両方があっていいかなと思う。「結果」を評価するのは企業側の論理、「過程」を評価するのは労組側の論理で、並べて語るものではないにせよ、どっちかだけでいいとはあまり思っていない。話がずれた。ずれたというか横に拡散してしまった。もとにもどす。

「こんなブログ書いてるヒマがあったら働け」などと言うが、「働く」というのはそんなに単純ではなくてもっと複合的である。たとえば、1日の中に15分くらいの隙間が3つあったからといって、それらをあわせて45分くらいの仕事ができるかというとそんなことはない。スマホゲームのようにスマホカバーをパタンと閉じればそこまでの進行を一端止められて、またカバーを開くとすぐに続きに没入できる、みたいな仕事はない。「この15分はどう用いても仕事には回せない」というスキマ時間はたまにある。そういうときにはブログでも書いておけばいい。

だから「こんなブログを毎日書いていても忙しい」という理屈は十分に成り立つ。そのうえで。

自分の忙しさをブログに書くようになったら終わりだなーという気持ちにつつまれている。今、恥ずかしい。貧すれば鈍するという言葉もあるが忙中鈍とでも言えばいいのかもしれない。ふだんそこまで自分に切れ味があるとは思っていないにせよあきらかに脳の回転数が落ちている。回転数! いまどき回転するディスクを用いて思考するシステムがどれだけあるだろうか? ああ、油断するとまたも、「忙しいから」「忙しいために」の方向に文章が進んでしまっている。よくない傾向だ。「よくない傾向」と書くことで免罪を得ようとしている部分もある。複合的によくないなあと感じる。まあそういう日もある。