おじいちゃん人生は昨日語ったでしょう

椎名誠『哀愁の町に何が降るというのだ。』は、かれこれ45年近く前に発刊された『哀愁の町に霧が降るのだ』の本人によるリメイクとされる作品で、現在も『本の雑誌』で連載が続いているのだが、ひとまずきりのいいところでこのたび単行本化された。

読んでいるとその中に、「同じことを二度説明した部分」が出てくる。

本の序盤で、イサオ君という登場人物がコロッケ君と呼ばれている理由が説明されるのだが、終盤になってふたたび高橋君という登場人物がコロッケ君と呼ばれている理由が説明される。

高橋イサオは江戸清という肉屋のせがれで、椎名少年はそこでたびたび芋洗いのバイトをしたりコロッケをもらってコッペパンに挟んだりと楽しい思いをするのだが、そのエピソードがひとつの単行本の中で繰り返される。

しかもそれは物語の演出として繰り返されるのではなくて、単純に「著者がこのエピソードを書いたかどうか覚えていないからふたたび書き直されたもの」であり、まあ連載の最中はそういうこともあるだろうなと思って読んでいたのだけれど、単行本になる過程でそこが修正されていないというのがしみじみとおもしろかった。

本としての整合性をとろうとするならばここは必ず修正するところだ。

なんならイサオ君と高橋君という、同じ人間の呼び方のぶれに関しても修正が入るの普通だろう。

しかしそのような校正を、おそらくは受けてもそのまま通して本にした、著者と編集者のそのような気持ちがなんとなくわかる気がした。

人間は、同じことを何度も語る。それはしばしば「年のせい」とされ、若い頃はそれが引っかかる、気になる。

どうせなら新しいことを聞きたい・読みたいと感じる。

こいつはいろんなところで何度も同じ話をしているから、私に対して(前に語ったことを、あるいは会ったことすらも忘れて)また同じように話をしているのだなと感じ、そこで興ざめしてしまう。

そういったことはわりかし頻繁に起こる。

しかし、今の私は、それこそが人の人たるゆえんというか、自分でもこれはあちこちで話しているなあと思いながらそれでも何度も語ってしまう、そういう現象自体がやたらと人間くさいなと感じる。

言葉の使い方としてはちょっとおかしいのだけれど、再読に対して再話と呼ぶべきものに、私は人間味を覚える。



とはいえ、何度も同じ話をする人間に対する老若男女の拒否感は根強い。

私自身、自分がこのブログでわりと近しいタイミングで同じことをまた書いていると気付いたときのがっかり感は大きく、それはたとえば前日公開された「再読についての話」がそれより4日くらい前にも語られていると気付いたときにも、猛烈な失望として味わわれた。

なんだ私は最近書いたことも覚えていないのかと心底落ち込んだ。

ブログに書き込んだ日付は公開の日付とは一致していない。書き溜めのできるタイミングの都合上、両者はたぶん1週間以上の間を置いて書かれている。とはいえたかだか1週間だ。1週間くらいしか空いていないにもかかわらず、先に書いたほうの内容をまったく覚えていなくてまた似たようなことを少し違う言葉で書き直している。海馬か基底核かどこかわからないが脳になんらかの問題があるのではないかと心配になる。

たかだか1、2週間くらいの間で同じことを何度も書いてしまうというのはいったいどういうことなのか。

家人や友人に「それこないだも聞いたよ」と言われるときのあのやるせなくも恥ずかしい自己嫌悪が文章においても生じてしまうというのはいったいなんなのか。

そういうやらかしを果たした当人として正直なところを吐露するならば、何度も書いてしまい、書いていることすら覚えていないようなものというのは、つまり、毎日毎日何度も脳内でこすっていることである。二度書いたからばれてしまったけれど本当は二度どころではなくなんべんもなんべんも考え直しているもののたまたま二回が表に出ただけだ。断続的だが反復的に、おそらくは1か月、2か月くらいのスパンでずっと考えていて、それを何度も言語化してはまた言語以前の感覚に溶かし直す、バレンタインデーの下手な自作チョコの湯煎とテーパリングのくりかえしのようなことを、思索と言語についてもやっている、その脳のありようのごく一部を文字としてアウトプットすると「同じことを何度も書いていやがる」となるし、口頭で語ればそれは「あのおじさん同じことを何度も言う」となる。

思考の反復というものは若いころにはたいてい欲望と結びついていた。あの人間が好きだ 好きだ 好きだと毎日何度も考えてこすりたおしていることを人前で言葉にしたりなにかに書いたりするかというと、そういうことはしない。恥ずかしいからだ。何かを食べたい 食べたい 食べたいと毎日くりかえし唱えていることを実際に声に出すかというとそんなことはない。情けないからだ。どこかに旅行に行きたい、行きたい、行きたいと願い続ける反復は実際に旅路に在るまで続く。なんなら旅の途中でもまだ「ここからさらに旅をしたい」という欲望のマトリョーシカのような状態になっていたりする。そしてこれらはほとんど自分の脳内で完結しており、アウトプットされることはない。そうした、「自らの内部で循環させ続けながら練度を高めていくような思考方法」を長年続けて、それがあるとき、自分の欲望を離れて、不安とか不満とか疑問とか疑念のようなものにも適用され、そのような手法に特化した脳の回路がおおよそできあがった中年期には、回路に投入するものが欲望ですらなくなってきて、「ただそのとき気になっているもの」にまで当てはめられるようになってくる。するとこれらは欲望ほどには、人前で語ったり文字にしたりしても恥ずかしいものではないので、かえって、自分の指や口から何度も排出されるようになり、内燃機関のパッキンがガバガバになったような感じで、これまで脳内で円環を描いていた思考が外部にだばだば漏れ出して同じことを何度も何度も書いたりしゃべったりしてしまう。

つまりこちらとしては「恥ずかしくないことだから書ける」のだ。ただ問題はそれが「何度も繰り返される」ということで、脳内ならよいのだけれどアウトプットまで何度もやってしまうとそれは、それを見ている人は、「なんか恥ずかしいやつだな」というように私のことを見るようになる。

だいたいそういうことなのかなと思う。


椎名誠の本はもしかするとあんまり真剣に校正とかしていないだけなのかもしれないけれど、私はなんとなく、「同じことが何度か語られたからなんだというのだ。」「それもひとつの私小説のありようではないか。」「むしろそこを修正したほうがのっぺりとしたつまらないものになるのではないか。」という狙いあって残されたものなのではないか、という気がする。つまり若い人がこの本を読んで、「なんだこのじいさんは同じことを何度も書きやがって」と感じるところまでふくめて文学体験なのではないか、ということを思ったし、こうして展開していく論旨の中にへばりつく自己弁護のねばつきを感じて私はまあしょうもないくらいに同じことを繰り返す残念な中年なのだときちんと自覚しないと周りに迷惑をかけるなあと、結局はいつもの自己卑下と自閉の方向に話を持っていっていつものようにだいたい似た感じの印象にまとまるように文章を調整して終わっていく。