指先の技術

駿河国は茶の香り、的な壁紙がWindowsの背景いっぱいに表示されて、緑がまぶしくて目にやさしくて、なかなかありがたいなと思うのだけれど、そういえば私はこれまでの人生で、富士山を「満喫」したことがあったろうか、とふと思う。天気のいい日にビルの隙間に遠くに見えて、「わあー富士山だよ見て見て」、これで満喫したと言えるのか。言えないだろう。ふもとに宿泊しないとやはり富士山を見たことにはならないか。いやいや登ってみないと本当のところはわからないか。いずれにせよ、満喫、したことはなさそうだ。富士山は、「見た」ことはあるけど「ひたった」ことはないという最たるものだと思う。

「ドストエフスキーはカラマーゾフの兄弟を一回読んだことがあるよ」なんてのも、「富士山? 新幹線の中から一回見たことがあるよ」なんてのと、ニュアンスとしてはわりと近いのかも、と思う。

このまま「表面だけこすってそれ以上深入りしないままここまで来てしまったものたち」をいくつか列挙するといかにもブログっぽくなっていくのだけれど、今日はそうならない。なんだかそうできなかった。

肩や背中の固まった筋肉が後頭部に付着した腱のつけねをひっぱって、今日の私はだんだん頭を支えているのがしんどくなってきていて、あごをひいてPCに向かうと首がはずれそうになるので、外付けのキーボードをPCからぐっと話して、背中をオフィスチェアにあずけて胸を張ってモニタを見下すように、薄目をあけてPC全体をぼんやりと見ている。北辰一刀流のセキレイの尾を見るときの目で自分がここまで書いてきたものをうすぼんやりと眺めている。なんだか、自分と、距離を置いているなあという感覚がわきあがってくる。こうして文章を打ち込んでいる自分の手元がPCの下方手前にうつりこんで、むしろ指の動きのほうが気になって、画面を見ずに指先だけを見て文章を打ち込んでいる。今やっているこれが本来のブラインドタッチなのではないかということを考えている。指がぱんぱんにむくんできたので少しマッサージをした。親指を握り洗いするような感じでぐっと握りしめてはねじりあげて、そうやっているうちに指先に溜まった熱が少しずつ掌のほうに降りていくのがわかる。小学校のころ、両手をあわせた体制から手のひらや指を少しずつ話して間に薄紙一枚分くらいのすきまを開けるとそこに熱が感じられるのがいかにも「気がたまっている」感があっておもしろかった。あの頃誰もがかめはめ波の練習をひそかにしていた、と書くと、ネットで受け入れられやすい構文の香りがしてくるが、実際にはもう少し複雑で、かめはめ波のような直線的かつ『のんきくん』のズッコケ(ドピュー)のときの効果線みたいなエネルギー波よりも私達が本気で扱いたがっていたのは少龍(シャオロン)であった。「まといたかった」のだと思う。私よりも30くらい年下の人間が小学生だったころは、おそらく武装色の覇気を身にまとえるかどうかを物陰でひそかに試していたと思われる。遠隔攻撃だけが子どもの夢ではないのだ。

顔をPCから話して薄目で自分の手だけを見ながら書き終えたものを次の瞬間には冷笑するような感じで上書き、上塗り、指の向くままに書き連ねていく。「見ながら書いてはいる」のだけれど、「ひたりながら書いているわけではない」ものだ。いちおうこのように、最初の話題に着地させることはできる。けれどもそれは小手先の技術だなと思う。指だけに。