飛び石連休のうち30, 1, 2は「連休内」で、「7, 8, 9」が連休外というのがいまいちピンとこないのだが、まあ、5月5日・6日くらいで大型連休が一区切りするというのは理屈ではなくて日本人の習慣に根ざした常識的感覚だろう。
常識というのは個人の心の論理カスケードからではなく社会の複雑な論理曼荼羅から出力される塊状のジャンクである。
なにがどの順番でどのように形成されたかを読もうと思っても線形に解読できるものではない。
まっすぐではないのだ。順列ではない。プログラムでもないのだと思う。フィルムですらないのかもしれない。
だから私達はつまりもう旅をしているわけではないのだと思う。私達は打ち出された無数のパチンコの玉の奇跡の総和、あるいは、宇宙空間で嘔吐した際の吐瀉物の3次元的広がりであって、拡散の途上にいて確率で分布する存在なのだ。
ガンダムジークアクスという文字列を見て大抵の人は当初「ジーク・アクス」なのだろうとミスリードされた。
新型のモビルスーツがアックスを持っていたから余計にそのように引っ張られた。
けれど実際にはquuuuuuxがプログラミングの用語で9という意味なんだよみたいな別のストーリーズがSNSを中心にじわじわと拡散をし始めている。
これらは制作側の読み通りというか仕掛け通りなのかなとも思う一方で、
違う、
物語とか創作物の仕掛けというのは、
確かにかつては順方向に・
着々と・
列をなして・
巻き取るように
行われていたけれど、
今は違う、
社会という半分被制御・
半分非制御の複雑系にセンスとイメージでキラキラ何かを入力すると、
拡散的で・
多元的な・
マルチレイヤードの・
リードを緩めて飛びかからせるかのような展開がしばしば起こるはずで、
制作側は入力物に潤沢な色彩と圧倒的な音楽と入り乱れる時間軸と思念を丁寧にパッチワークすることでその「予測不可能な展開を蓋然的にする」ことが未必の故意的クリエイティブとして最もうまく機能することをうすうす知っている。経験的に知っている。拡散的に知っている。確率的に知っている。
情報を制御しようと思っていない戦闘狂みたいな人間たちの仕掛けの数々はもはや文章でこうだと示すことが難しいのかもしれない文章で示せるものならいくらでも文章で示せばいい時代において文章以外のもので何かを表現し続けている人びとがやりかたを選び取るのは当たり前というかつまりこれは非言語的クリエイティブがようやく言語から自由になって本来のポテンシャルを発揮し始めている喜ぶべき状態なのかもしれないなということを五感の複数箇所で数秒置きに受け止める。
言語化という言葉を使う人間のことをあざわらう人間がnoteにほどよい文字数の記事を書いていて自然と冷笑した。私達は誰もが「1列に整列して小さい前ならえ」から何も成長できていない線形思考の囚人である。キラキラ。見ろ。それが見えないなら慎んで言語化に甘んじて恥ずかしさに顔を紅に染めてnoteの収益を全額寄付しろ。