かしこい脳の育て方

麦茶。自販機で買うなんてもったいない飲み物の筆頭だった。かつては。烏龍茶やジャワティやマウンテンデューとは違う。自分ちで作れないか、作れるか。そこでしか飲めないか、どこでも飲めるか。でも今は麦茶を買う。買ってしまう。

昔よりもはるかに多くの飲み物・食べ物を、基本外で口にするようになり、いつの間にか麦茶も、とんと自分では作らなくなって、その結果、買うことに躊躇はあまりなくなった。麦茶。買ってよく飲む。

散歩のために靴の中敷きを買った。今はインソールと言うようだ。昔も言ったかもしれない。買って靴に入れてみたらずいぶんと歩くのが楽になった。歩くというのは金のかからない趣味だなと思っていたけれど、金をかけたほうが体験が安定する。

金を払う日が増えた。若い頃は払っていなかった場所で。若い頃は払っていなかったものに。小銭で解決を試みる。


「なんでそんな無駄なことを」という目で私を見る人がたまにいる。


そういう人は、私よりもいい服を着ている。水を向けると、「丁寧に生活をして、無駄遣いをやめて、そのかわりたまには自分の着たいものを着たりおいしいものを食べたりする、つまりこれはごほうびみたいなものだ」みたいなことをいう。本人もわかって言っているのだと思うけれど、それはもはや生き方の違いだ。「いい服を着る」ことを私から無駄だと言われたら激昂する人たちが、「麦茶やサブスクに金を払っている」ことを無駄だと言う。「他人のずぼらな生活をあげつらう」ことによって、自分を相対的に高く見せようとする。私のような人間の暮らし方に文句を付けることで自分がより気持ちよく生きていく糧を得る。

上手に脳をマネジメントしているものだなと感心するほかない。


遠方のスーパーに行くことで2円得をするのだと買い物のたびに自転車で遠出をしている人がいる。「自分で得だと思うほうを選び取ったこと」に快感を覚えるような回路に脳を育てきった賜物かなと思う。消費したカロリー、時間、自転車の減価償却費もろもろを考えると、金額的にガチで節約できているわけではないはずだ。しかし、だからといって、それが悪いことだとは私は思わない。そもそも極端に燃費の悪い脳を喜ばせることができる時点でそれはもはや世の中のあらゆる娯楽よりも高効率である。

そういう脳サポートシステムを維持できていることは単純にすばらしい。

ただ、「1円でも安い場所を選ぶ努力をしないなんて、お金を無駄にしている」と、人の生き方をだしにして自分の価値を上げようとしはじめるのには閉口する。


麦茶を買わない暮らしをしている人に「麦茶買ってないの? 人生損してるよ」みたいなことを私が言うようになったら、うっとうしいだろう。でもそういうことをしょっちゅう言われる。「なんで自販機で麦茶なんか買うの、もったいない」。麦茶だから笑い話で済む。でも、麦茶以外でも、人びとは互いにそういうことを言い合っている。人を下げないと自分が上がらない仕組みに育った脳がたくさんある。感心する。うまくやったものだなあと思う。