花を愛で、旅路の記憶をたどり、microscopic colitisってcollagenousとlymphocyticだけじゃなくてもうひとつ核偏在性腸炎ってのがあるらしいけどあれって要は薬剤性だよねと指摘する。こういう会話だけで過ごせたら素敵だなと思う。シャンゼリゼのカフェで昼下がりにコーヒーを飲むように、学会の休憩ブースで見知らぬ病理医と一般演題の発表者が1秒しか出さなかったFigureの意義について語り合えたら素敵だなと思う。
しかし、なかなかそうもいかない。
油断するとすぐに米の値段がどうとか、米の値段について人心を惑わせ将来の視聴率アップにつなげようとするメディアの取り組みがどうとか、米の値段について人心を惑わせ将来の視聴率アップにつなげようとするメディアのカウンターパートとしてのウェブの素人の構文がどうとかいう話をしてしまう。
おしゃれで洗練されていて、上品で思慮深く、芯が強くて包容力のある、そういう人で私はありたい。ネットで見つけた「今日の火種」を日替わり定食のように摂取してエネルギーに変えているようなことではだめだ。
だめなのだ。
しかし油断するとすぐに減点法の世界に逆戻りである。世のほころびや人のだめさに目が惹きつけられてしまってしょうがない。メールの文面が失礼な中年に返事をするのがめんどう。何だこの書き出しは内容は居丈高な態度は要件がバラバラじゃないかそれは自分でやれるだろ礼も儀もないのか締めの挨拶もないいったいどうなっているんだ。これで仕事が回ると思っているのならば、果たして彼は今までどれだけの人間に迷惑をかけ続けてきたのだろう、人ごとながら心配になる。放っておけばいい。しかし、「ここで自分が苦言を呈することで、将来この人に悩まされる人の数を減らすことができるかもしれない」というような、謎の使命感のようなものも脳裏にちらつく。
イライラとしながらしばらく時間を置いて、精神が凪になったところで短く返事をする。「承知しました」「かしこまりました」「今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます」。あたりさわりない。おそらく相手はこれでまた一つ面倒な仕事を終えたと満足しているだろう。気に食わない。憎まれっ子世にはばかる。しかり。
いつも以上に疲れて帰路。「他人の短編夢小説の朗読」みたいな企画を有する「熱量と文字数」を聞く。「ハイスクール・オブ・ザ・デッド 毒島冴子先輩とのブヒ部です」。「NEW GAME! 涼風青葉さんとのブヒ部です」。ばかばかしい。どうでもいい。心が洗われていく。脳がスカスカになって隙間風がフルートのように楽しげに響く。人とはこんなにも、いい意味で腹が立つ生き物でもある。現実の中年にかかずらっていやな思いをしている私が下等なのだ。虚構によって自らの機嫌をとる人間こそが一番立派なのだ。