私の後任がやってくるまであと1か月。そろそろデスクの片付けをしなければならない。デスクの裏のほこり、疲労した棚の数々、捨てるものと捨ててはだめなものが入り混じった本。いくつかは捨てる。いくつかは詰める。麺通団の讃岐うどんの本はおもしろいのだが古すぎてもう開くこともなかろう。えっあの女優の写真集!? さっき自宅で目にしたばかりの文庫本がここにも。18年の堆積物の上澄みの、たまり醤油の塩分のあまりの濃さの、めまいのふらつきの高血圧の、ためのピルケースの壊れたの。
ちかごろいつも精神的に五叉路の真ん中に立っている。四つ辻ならば虱潰しに歩いていく気にもなるのだが、それ以上道が増えるとずぼらな私はどこか一方向だけにずんずん歩いて半端な散歩をしてしまう。選択をしたくないのだ。そもそも人生が選択の連続だなんて思っていない。エンジンの出力が落ちないままのボートで海上の五叉路に差し掛かったとしたらどれだけ舵を切っても基本的には前方にしか進めないだろう、だって、私たちは急ハンドルとか急展開とかできない、なぜならアクセルが弱まることはあっても停止することはないからだ。つまり私たちは選択をしているのではなくて方向の微調整くらいまでしかできない。あとはアクセルをより強く踏み込むか、ゆっくりやわらかく風船を踏むようにするかといった強弱の調整くらいだ。したがって五叉路は困るのだ。進行方向と逆側にある星型の足の部分みたいな二本の道にはそもそも振り返って目をやることすらできない。安易に後ろを向くと頸椎症で腕がびりびりしびれてしまう。
電話を早く取る。メールを早く返す。プレパラートを早くしまう。そのあたりに自分の、満足の慰撫のあれこれの、とにかくそういうところのアイデンティティがあるのだけれども、今は、段ボールひとつを用意するにも考え込んでしまう。どれを捨ててどれを持っていこうか。夢にもそんな光景を見た。今朝の夢、私は病理医で、なにかにエントリーしてなにやら出場をしている。もうひとり病理医がいる。私は野球の内野の、一塁のベースのそばに立っている。もうひとりは、二塁ベースのそばの、審判員の立ち位置にいる。ランナーが一、二塁間に挟まれている。今から私は、内視鏡所見の病理解説をして、ランナーを一塁に呼び戻す。もうひとりの病理医は、二塁審判の場所で、私と同じ症例に、違う解説をして、ランナーを二塁に進塁させるのだ。さあ、どちらの病理解説がより切れ味があって、ランナーを引き付けることができるかな? しゃべる。とうとうとしゃべる。しかし私は少し自分の解説が長いのではないかということを、しゃべりながら気にしている。こんなに長く丁寧にしゃべっていると、ランナーは私のほうを嫌って二塁に走ってしまうかもしれない。しかし、省略できないのだ。内視鏡形態と組織形態のとりあわせを説明するには言葉を積み重ねる必要があって、でもそれは、私よりもっと優秀な病理医であれば、決定的かつ蠱惑的な単語をうまく使ってもっと端的に述べられるものなのかもしれないと思って私はまごまごとしている。捨てられない。選べない。どれも順番に語っていきたい私は冗長である。ああ、ピッチャーがもうすぐ投げてしまう。投げたらランナーは決断をしてしまう。選択をしてしまう。私は言葉を減らせない。ランナーはおそらく二塁に進んでしまうだろう……。
私の後任がやってくるまであと1か月。毎日目が覚める時間が早くなる。時間は限られている。私も限られている。選んで捨てないといけない。そうか、私にとって、選択とはつまり、捨てるものを選ぶということなのだ。だったら私はいつも選択している。この世のすべてを一気に選択したいといつもぼんやり感じている。写真を複数選択して捨てられるようになってから、スマホは便利になったよなと、私はときどき思い、ゆえにときどき存在している。