出禁ザビ

偉い先生からチャンジャ(キムチ)が届いて小躍りした。こうやって送っていただけるのは2度目だ。うれしい。しかしお返しを考えなければならない。贈り物に対する返礼というのはむずかしい。先方は60年以上の人生の中で出会ったすてきなものをお送りくださっているわけで、私なんぞはどうがんばってもそれに匹敵するくらいの「吟味」なんてできない。同じクオリティのものをお返しするのは不可能だ。とはいえ、こういうものは、互いの贈り物のレベルを比べ合う必要がなくて、私は私なりに精一杯相手のことを考えて贈るものを選べばいいだけの話だ。そんなことはわかっている。わかった上で、贈り物とは、むずかしい。

脳をねじりあげるようにしてうんうん考えている。悪い時間ではない。困った時間ではある。つらい時間ではない。ハードな時間ではある。

この先生は、物を送る前に必ず事前にご連絡をくださる。こちらの都合を聞き、受け取れる場所と体制を確認し、それから物を送ってくださる。ああ、だからこうして誰にも愛され尊敬する偉大な人間となっているのだなと納得する。私もこうあらなければならない。自分が満足するためではなく、相手のことを思って物を送るならば、事前に連絡なしに一方的に物を送るということにはならない。わきまえなければ、身に染み込ませなければなと思う。

事前に連絡無しに送られてきた献本をマッハ4の拳で粉微塵に破壊して断片を3000度のボイラーで燃焼させて灰を石狩川に流す。





一度目が覚めて、寝直すと、同じ夢の続きに入った。別にそこまで続きが見たい夢でもなかったので、次に目が覚めたときにひどく驚いた。「なぜ今回に限っては同じ夢を見たのか」。なにか法則が、もしくは手順があるのだろうか。途中まで見た夢の続きを見るための、脳にインパクトすべき符牒のようなものがあるのだろうか。さっきからずっとこのことを考えているが一つの可能性に気づいた。

「一度目が覚めた」という部分も一連の夢なのだろう。本当は一度も目覚めていなかったのではなかろうか。

夢の中で私は、寝たまま、「これが夢であると気づくときのシナプスの発火のしかた」を再現した。そして、夢から覚めたらそこまでのエピソードはいったんばっさりと切られるということをあらためて「確認」し、「また眠りに入ると決して同じ夢に戻ることはない」という私の認識を、まさに夢らしく「裏切る」ために、続きのストーリーを映写するという、このすべてがひとつの夢だったのではないか。

そしてここまで書いてふと思った。

わかりやすい大きなストーリーに対して、「しかしここは違う」と、脳の中の常識が身悶えする、あの、脳の中の胃が少し持ち上がるような収まりの悪いかんじ、これ、夢に対してはもちろん、現実に対しても私がいつも身構えているもので、「そうなるな、なるな、なるな……ああ、なった」と、折に触れて私ががっかりしたり冷笑したりする、その繰り返しに私はなんというか、人生を見ているのかなと思った。献本は出禁。しかし私はその「出禁」を発動するときに限って、この世界のありようを納得してしまっているような気がする。