Windowsにそれなりに搭載されているBingの機能として、ああ、そうそう、Bingというのを毛嫌いする人もかなりいるのだけれど、こういうのを嫌だという人の中でBingの本質的なヤバさに到達できるほどPCで込み入ったタスクを運用している人というのはほとんどいなくて、はっきり言って気にしなくていいと思うのだけれど、ともあれ、デスクトップの壁紙を毎日切り替えてくれるというのがある。その名も「Bing壁紙」。悪くはない。むしろ良い。わりとずっと使っている。しかし、最近、気に食わない。Bing壁紙は、冬になると、「きれいな雪景色」であるとか、「氷山」であるとか、「シロクマ」であるとか、「広大な山、葉っぱのすっかり落ちた木々」みたいな画像を選びはじめる。アホか。それがきれいに思えるのは夏までだ。冬の殺意に満ちた寒さと暴風雨をしのいでしのいで、ようやく出勤して、全身ガリガリ君みたいになって、体表の水気を切りながら、コートの裏側のかろうじて濡れていない部分を用いて指を覆ってPCの電源を入れて、開いた壁紙が一面の雪って、なんのいじめなんだよとマジで毎日思う。Bing壁紙はクソ。このブログを読んでいるすべての人にまったくおすすめできない。夏はまだしも。冬はだめ。冬のBingはだめ。Bingはだめ。新垣結衣「ふ~ゆ~の~Bingは~、雪~のよ~うな物の怪~、降る雪が全部~、Bing壁紙なら~~~許さない」。ちなみに今のメルティキッスのCMは新垣結衣ではないです。
冬はうんざりするので小説が読みづらい。そこでエッセイとかコラムを読みがちになる。今はブルボン小林のコラムを読んでいる。書籍とか小説とかエッセイとか句集などの「タイトル」だけを見て考えていく、『ぐっとくる題名』シリーズの新刊が最近出た(『グググのぐっとくる題名』という)。おもしろい。SNSのアカウント名にも言えることだな、などと、連想に棹さすことなく安直にゆるゆる読んでいる。
SNSのアカウント名。
自分でいうのもあれだが、「病理医ヤンデル」というアカウント名は、ブルボン小林のいう「二物衝突を用いた命名」の最たるものであったし、輪をかけて自分でいうのもあれだが私の生み出した名の中では群を抜いて「うまい」と思う。「病理医という言葉に何をかけ合わせるとアカウント名として伸び上がるものになるだろうか」と考えた、30代なかばの日を思い出す。
そもそも、病理医という単語自体、【「病」と「医」という本来は対置されるものを「理」でむすぶ】というコシャクな構造をしている。また見た目もやや不利だ(何に対して有利・不利かはともかく、ばくぜんと不利なのだ)。画数的にやや多めでぱっと見が黒く、輪郭的に病という字はトゲトゲとしていて転がすと絨毯にひっかかる感じがある一方、理と医は活字のかぎりでは「四角い」。つまり意味を連結させない「字面」だけで、病理医という単語は、破損の気がある剛体というか、年季の入ったトタンのバラックのようなイメージがある。このためか、病理医を最初にもってきた文章・フレーズは、うしろに何がやってこようとも、古びたイメージ、硬いイメージ、独自の理屈で時を重ねていそうなイメージ、コミュニケーションを若干こばむイメージなど、総体としてややネガティブな印象を与えると私は感じた(例:病理医の仕事、病理医のリクルート、病理医のキャリア、病理医の年収)。ただ、このネガティブは、まっすぐそのままのネガティブではなく、まず、「医」という一字によっておそらく揺さぶられる。「医」というからには病理医とは「お」と「様」のつくしっかりした仕事なのだろう、とか、人を救うための装置なのだ、といった、ゲスい敬いを強要するタイプの要請が、病理医という三文字の最後の「医」によって、最前列の病という言葉のトゲやいらつきと衝突しながら出動する。「病理医」と目で読むための0.05秒、もしくは口に出して音にするときの0.15秒で、病がポールポジション、医がそれに遅れて3位で飛び込む、この前後関係は衝突を内包している。さらに、病の真後ろのスリップストリームに入っている「理」、ここがまた、喧騒で猥雑な衝突に対して「説教」のように作用するのが、私からすると、正直に言うと、ぶっちゃけ「迷惑」であった。病と医という字のそれぞれが異なる平面上で別個に内包していたどことなくアンダーグラウンドなイメージを、「勝手にそのように解釈してはならない。」とまっすぐ矯正してくる目、もしくはゲンコをはーっとやりそうな融通の効かない教師のゲシュタルトが、この単語をどのようにも「ゆがめて解釈してはいけない」という圧として、病理医という単語全体を身動きのとれないような歯がゆい方向に手引きしている。
かように、病理医という単語がそもそも二物もしくは三物衝突的である。そこにさらに何を加えたら、うるさくなりすぎず、しかし病理医という単語自体に乗っ取られない程度にイメージをずらすことができるだろうか? 私は理屈と感情それぞれをあまり封殺させないようにしながら毎日考えた。
結局、カタカナの、軽率な、形状として三角形らしさが強い、「やんでいる」ではなく「ヤンデル」、語順とかイントネーション的には人名と読めなくもないくらいの単語を配置することを私は選んだ。この単語の由来はダジャレが60%くらいなのだが、この、「ダジャレと60%くらい相同の理屈」を、私はどこか信頼している。ダジャレ100%が持っていない迫力のようなものがダジャレ60%にはある。
探し当てたヤンデルという文字列は、直前の病理医という言葉の言霊と150度くらいズレて全体としてなにか異様な雰囲気を醸し出す。「病理医」という言葉の中でじつはもっともネックとなっている「理」を少し茶化す役割があり、一方で、だからこそ余計に理を強調するような、思春期の面倒なオタクみたいな両面仕草、ここにもうひとつの衝突が起こる。頭から読み下すと、「病なのに医なの?」という違和が0.25秒くらい生じて、それを処理し終わるか終わらないかといったタイミングでさらに「医なのに病んでいる? あっでもこれって単なる人名? イントネーションは? ガンダムといっしょ? それともハンドルといっしょ?」というように、違和によるサイドブレーキと、ミームとの邂逅がもたらすフットブレーキ、この2つのブレーキがかかって、がくんがくんと多重の衝突が生じる。それが病理医ヤンデルという組み合わせがアカウント名として機能するために必要な理屈であった。
(※今、ミームとの邂逅がもたらすフットブレーキと書いたが、これはつまり、ミームの体験が少ない人にとって病理医ヤンデルという字面は、私が想定している「含み」ほどには機能しないことを意味する。このことはむしろ私が意図していたことで、私は自分のアカウントをそもそも「わかる人向け」にチューンしたかった。広く万人に刺さるような名称だけは付けないと決めていた。それはポリシーというよりも広報・リクルート上の都合であり、病理医というのはそもそもオタク仕草をわかっている人がなるべきだというかつての信念がかなり影響している。この信念は「かつて」と書いたが、じつは今も私の中にけっこうきちんと香りを出し続ける古びた匂い袋のように残っている。)
ブルボン小林のコラムを読んでいると、世にあるたくさんのプロダクトの「命名」にも、たいていの場合さまざまな戦略を「後から/外から見出す」ことができるなあと思っておもしろい。私の場合、生涯で「これはいい仕事だったな」と思える命名というのはたったひとつ、「病理医ヤンデル」だけで、ほかのたとえば書名であるとかブログのタイトルみたいなものはそこまで機能していないんだろうなと思っている(それらが嫌いなわけではない。ただ、幾重にもからみあう生物みたいな構造を説明できるのは「病理医ヤンデル」だけだ)。そして、この病理医ヤンデルというフレーズが、もともと理屈先行で編み出したものではなく、基本的にはダジャレの延長でぽんと出てきて、その字面を見ても意味を見ても、ああ、これ、ダジャレだけど思った以上にいい名前だなとなったという「順番」は極めて重要だと思う。ダジャレによって生まれたものを、理屈によって「採用」する、この採用という動きにおいて私は病理医ヤンデルというアカウント名にいい仕事をしたなと思う。でもあくまで「採用」にすぎなくて、誕生の経緯はダジャレだったんだよなということもきちんと覚えておかなければいけない。
関係ないけどブルボン小林と古賀乃子がかつてやっていたポッドキャストのタイトルは「採用ラジオ」だったという。まだ聞いていないがそのうち聞いてみたい。