知らないことが多くて日々謙虚に学び続ける。それはまあそういうものだろうと思う。一方で、「よく知って、満たされてしまった」みたいな顔をしてミドルエイジ・クライシスに陥っている知人・友人がけっこう多く、おう、すごいな、と感じる。
でもこの「すごいな」の感情を、単に「無知の知」みたいな言葉で語り始めると、ぜんぜんおもしろくない。どちらかというと、その、クライシスのほうにいたかった……という、わりと切実な願いを言う自分が、心の一部でときどき存在感を出してくる。つまり「すごいな」は、ある程度は「あきれた、すごいな」なのだけれど、ある程度は「心底、すごいな」でもある。これらをどちらかに振り切ることなしに、時間をかけて、じくじたる感じで、順列を見出しながら語ってみたい。でもそこで「無知の知」というフレーズを出してしまうと、これが内包する過去のストーリーとか体験をある程度省略して、これが外装する影響とか支配力みたいなものに思考が絡め取られてしまって、それっきりどこにも進んでいけなくなる。
故事成語とか慣用句の類が早期に出現する話題というのは、類型に彼我をはめこんでいかなければならないというか、責任という薪をくべて焦燥を燃やしていく感じというか、そういうのがどうにもいたたまれない。誰かがすでに言ったことを大事に参照していくというのは、ほんとうにとてもすばらしいことなのだけれど、それを参照するときに、「あせって、急いで、結論に一足飛びに行こうとする」ととたんにつまらなくなる。できればそれらのフレーズが生まれるに至った流れ、その形でしか語れなかったような複数の意図のベクトル、それが25種類あるならば25次元の、25000種類あるならば25000次元のデータを、AIなき時代にいかに圧縮するかと、猛烈な量の人間が思うと思わざるとを問わずに試行錯誤した結果、数字という風雪にけずられて風化した荒野の大岩のような決定的な言葉の塊が、元からそこにあったかのようにそこに残って、そうやって出てきたのがたとえば「無知の知」みたいな言葉だなと私なんぞは考えてしまう。そんな言葉を用いて無事圧縮できてしまった複雑系を、たとえば逆回しで、次元圧縮を解くように、ハッシュ化を解除するのと同じで基本的には困難なはずのことをやってみるというのは、相当、慎重な人がやらないと、誰かがすでに言ったことを大事に参照したことにはならない。私なんぞはそう思う。
でもまあ一般的に、キャッチコピーあり、リードコピーあり、ボディコピーがあったとして、参照されるのはキャッチコピーの部分ばかりでせいぜいリードコピーまでだろう。ボディコピーまで参照してくれる慎重さを見ることはとても少ないし、まして、そのコピーライターが参照した数々の資料、会議室にぶちまけた書類の数々、プレゼンでボツになった複数案のそれぞれ、壁打ちAIとの会話内容、そういったものにまで思いを寄せて、コピーとその裏にひそむ膨大な試行の数々をひとつひとつ開けていくような手さばきを見ることはほとんどない。
ほとんどないが、たまにある。それはすばらしいことだ。世の中はたいてい、「ほとんどないが、たまにある」でできていて、その「たまにある」を探しに行くために、わりと手間をかけなければいけないなあということをよく考える。