かんじのつかいわけ

特急ライラックの窓際は少し冷えるが、一般的な家庭の窓よりはよっぽどましで、これでもきちんと断熱されているほうで、大赤字のJR北海道、がんばっているなと感じる。窓のへりに本当に申し訳程度の、ものすごく浅いくぼみというかへこみがついていて、そこにビニール製の滑り止めがついているので、缶コーヒーだとかペットボトルだとかを置くとよいという配慮なのだろう。ビニールは少し黄ばみ始めていて、昭和の時分、どの家にもたいていあったテーブルのビニールクロスの少し反り返った疾患を思い出す。

早朝の電車に乗る時は東側の座席をとるべきだ。浅い角度で入り込む朝日が、反対側の座席のほうから私の横顔に鋭角に注ぎ込んで、サンシェードを降ろしたいがその担当範囲は居眠りに余念がない知らない中年男性である。アンコントローラブルな事象がまたひとつ。自らの手で動かせないものに囲まれての暮らし、日除けくらい、さっと降ろせる場所に陣取るべきである。人事でもない、体調でもない、ほんとうに、左手ひとつで解決できたはずの、小さなトラブルを放置したまま電車が荒野を滑っていく。


昨晩、Xの、Space(音声放送)を久々に聞いた。わりと知っている人とちょっと知っている人がけっこう込み入った専門的な話をしている。ちょっと知っている人のほうは、自らの興味のない話題に対して、まったく掘りさげようとしない。それがおもしろい。自分がかかわっている話、自分がかかわっている人間たちの話は、問われなくてもたくさん語るのだけれど、自分の守備範囲のちょっと外にある話にはいっさい手を出さない。キッカーが足を振り抜いた瞬間にもう横っ飛びすることをあきらめているゴールキーパーのようだ。そのほうが生涯年収が高くなるんだよ、と、村を長年仕切ってきた古老が言いそうだ。古老? 古くない老いがあるだろうか? わりと知っているほうの人は、違う。自分が興味をさほど持っていない話であっても、ひとまず、相槌で対処をはじめる。だまって聴く、あるいは、相手がしゃべりやすいように聴く。そのうえで、すべてに納得したふりをすることもなく、きちんと感想を述べる。きちんとしているなあ、と思う。そのほうが、生涯年収が高くなるんだよ、と、村の真ん中にそびえ立っている大樹が言いそうだ。そびえ立っている? そびえ立たない大樹があるだろうか? あるか。

ポッドキャスト「いんよう!」の続きをやろうという話が少しだけ出た。いつかはわからない。いつかの話だ。

さあ、豪雪の札幌。外勤、いくつかの買い物、何度かの飯。そのままだと離れて蒸発していく熱力学にあらがって、動き、話し、はたらき、考えて、聞く。この中ではおそらく、聞くことが一番むずかしい。それは、聴くよりもはるかに難しいことだと、私は思っている。