近頃の若い病理医はみなこぞって優秀なのだけれど、解説がだんだん長くなっている。先日も本州の医師を中心に開催されたウェブの研究会と、関西で開催されたハイブリッドの研究会に、2日続けて参加したのだが、複数の病理医がみな長々としゃべる。すごいなあと思いつつ、これ、臨床から不満が出ないのかなと、すこし心配にもなった。
病理医たちは、いったん病理の話をはじめると、ずいぶんと込み入った話をする。やたらと組織の拡大写真を出し、何本も論文を引いて、まるでミニレビューのような発表をする。さすがに近頃はちょっと過剰ではないか、というか、それがほんとうに求められている仕事なのだろうか、ということをうっすらと考える。
研究会において、フロアの臨床医は画像に関していくつもの議論をする。それらの議論が高まりきったあとに、「では、病理の解説をお願いします」と、病理にバトンが渡されるわけだが、そこで病理医が解説をすれば症例検討が終わるわけではない。そこで終わりではないのだ。先がある。「内視鏡像の疑問のうち、病理で答えが出せる部分はどことどこなのか?」、そこのところが、もっとも研究会の大事なところであり、内視鏡医と病理医がいっしょに会に参加している意義なのではないかと思う。そのことを考えると、病理医の解説は、基本的に、長い。長い上に、「病理医にしかわからないようなこと」ばかり語っている。「細胞を見なければわからないこと」を解説するのは大事だ。しかし、「細胞を見なければわからないこと」というのは、じつは「だから、内視鏡医がいくら考えても無駄なこと」を多少なりとも含んでいる(ものすごく工夫すると病理像を推測できる、ということもあるのだけれど、少なくともそこにはたくさんの努力が必要である)。
病理医が自分の強みばかりに依拠してしゃべりまくると、すこしずつ内視鏡医が置いてきぼりになる。とはいえ、近頃のかしこい病理医の中には、内視鏡医のほうをちらちら見ながら、「ほら、組織がこうだと、内視鏡はこう見えるでしょう?」みたいなことを言うのもいる。置いてけぼりにはしていませんよ、という意味なのだろう。しかし、「こう見えるでしょう?」というのが問いかけではなく、押し付けになっている気がしてならない。いったん臨床医にボールを投げ返したらいいのにな、と感じることはとても多い。
かくいう私も、そういう、「病理医による病理医のための解説」を、少なくとも30代の10年間は何度も何度もやってきた。……と、思う。
思い出す限りそうだ。私は、「誰にも止められず、最後まで気持ちよくしゃべるおじさん」という、飲み会ならハラスメントになるようなことを、病理の世界ではずいぶんと長くやってきた。そして、そのことがもたらす、相手の微弱な不満を収集し、すこしずつすこしずつ、「自分がしゃべれることを全部しゃべるのはブログでやればいい」と思い始めて、相手がいる場所ではとにかく投げ返さないとだめなのだなということを思うようになった。
私に病理解説の場を与え続けてきた診療放射線技師や超音波検査技師たちは偉かったんだなと、今更ながら頭が下がる。よく、あんなに、がまんしたものだよな。
もっとも、内視鏡医はまた違った感想を持っているかもしれない。病理医にはとことん、しゃべりたいことを全部しゃべってもらって、気持ちよくなってもらいつつ、病理医の一言一句を栄養として摂取するくらいの気持ちで、ぜんぶ聞きたい、と考えているかもしれない。だとしたらむしろ、近頃の私のほうが、しゃべりたりないということになるはずなのだが、私はこれまで、「もう十分」とは何度も言われてきたけれど、「もっとしゃべって」とはあまり言われたことがないので、そのあたりの感覚はわかんないです。