気に食わない書評

結局、おもしろくなかった。読み終えることなく捨てた。買ったばかりの本をあきらめて紙ゴミの入った袋に押し込む。でもまだ本を読みたい、本棚を探す。今の本棚はとても小さくて、端から端までまさぐってもさほど時間はかからない。しかし、気持ちが陰のほうに傾いている今、古典的な詩集であるとか、音や絵にかんする本などというのは、読むことでその本の表紙や中のページに水垢や腐った臭いをなすりつけてしまうような気がして、手に取れない。Kindleのマンガを探す。『めしにしましょう』の描き文字を見ていると心の陰がすこしずつゆらいで陰のまま落ち着いていく。ほんとうはもう少し別のものも読みたい気持ちはあるのだけれど、陰を抱えているときに読むと陰が満足する本というのがあって、こういうとき私は『めしにしましょう』とか『ぱらのま』のようなマンガを読むようにしている。

陰をただちに陽にすればいいというものではないと思う。陰をかかえたら、肩をなでつけ、裾をととのえて、陰がそのまましばらくそこで穏やかに過ごせて、いずれ満足して消えていけるように、奉仕する。陰を看取るようにする。そうしないで、陰を陽で払ってしまおうとすると、かえっておさまりが悪くなる。



翌日、早朝に出勤し、7:00からはじまった健康診断を受ける。こんなもので健康であることがわかるとはまったく思わないタイプの、法定の健康診断だ。服を着たまま測る体重。駆け足で近寄って測る血圧。ぜんぶあわせて12分だった。デスクに戻ってきてメールを処理しつつ、まだ、始業までに1時間以上あって、さあどうしたものかなと思っていたらメールの中に購入予約していたKindleの入荷通知が入っていることに気づく。藤田和日郎『シルバーマウンテン』の3巻が出ていた。藤田和日郎というのは不思議なマンガを描く人で、陰のときにはその陰に巣食うような、陽のときにはその陽を掬うような、陰・陽の両方を賦活するような物語を出してくる。腕や足が螺旋状に加速度を増していく、最短ではないが最速ではあるときの武道のイメージ、肉体の可動域が本来のそれをすこしだけ凌駕するとき特有の圧を、白黒の絵で描ける人間というのが古今東西に極めてまれであるが、藤田和日郎こそはそういう描き手であり、藤田和日郎作品を読むタイミングというのは究極的にはいつでもどこでもいい。まあ、唯一の制限として、読み始めると5分や10分では読み終えられない「語りの長さ」、それだけ気にしておけば問題はない。

すごいマンガというのは読み手の体験に根ざすというよりも読み手の体験そのものになって読み手を変えてしまう力がある。

先日読んだつまらない本には、「だめな書評とは鏡であり、すぐれた書評はプリズムである、本の光がただ読み手に反射するのはだめな書評で、本の光が読み手の体験に基づいて変化して分光するとよい」みたいなことを書いていたが、光の例えをつかうと、それがぶちあたるのが鏡であってもプリズムであっても、書評家自身には特に影響が及ばない、あくまで書評家というのは光を拡散するだけの存在と思っているのだなと、私はだんだん白けてしまった。書評、さらには批評全般に言えることなのだけれど、評する人間自体が振動したり痙攣したり発熱したりする様子が伝わらないならばそれはなんか別におもしろくない。自分が中継点になることを偉業のように感じている人間の書くものは総じていやな思いがする、しかし、そのいやな思いもまたこうして私の感情をゆさぶって何かを書くきっかけになっていたりするので、本を買って捨てるという行為にも陰陽それぞれの側面があるのだなとうんざり、やれやれ、しかたねー。