「たくさん金払ってうまいものを食えるのって当たり前じゃん、それはつまり金を出せば誰にでもできることだからむしろ平等じゃん。特別ではないじゃん。そうじゃなくて、日ごろからの目配りのよさ、目利き、そこに運をひとつまみ、それで、たいして金を払ってないけれどうまいものが食えるってほうが、よっぽど体験としては上級じゃん」。
最後に「上級」という評価基準が出てくるところはまあなんかかわいいところあるなという感じだけれど、ともかく、私はこの、「高い金を出してうまいものを食ってもつまらない」という考え方に反論するのはわりとむずかしいと思っている。まあ、それはそう……かな、と思うところがある。
似たようなことは服にも言えるのだが、服の場合、ある程度の金額までは値段に比例して布の質がよくなって、着心地とかシルエットとかが変わっていったりもするので、「安い金しか出さなくてもセンスさえあればいい体験ができる」は、飲食ほどはびしっとはまらない気はする。また、服というのは評するのが他者の目であり、自分が着た服を自分で見るにしても、目線は鏡なりスマホのレンズなりを介して他者化させないといけないというのが、飲食と同列には語れない理由としてある。「服の見た目が外からどう見えるか」。服から目にたどり着くまでの光路の途中に値札がピトピトぶら下がっている。どうやったって値札が見えてくる。一方、「味がどう感じられるか」は、値札がぶら下がるにしてもそれは皿の段階であり、口の中に入って舌やら喉やら嗅神経やらに接した段階で、他者からの目線ならぬ「他者からの味覚線」という感覚はかなりなくなっていて純粋性の高い「自分だけの体験」になる。そういう違いはあるのかなと思う。
これまで食ったものの中でそうとううまくて、しかも高かったものとなると、なんだろう。寿司か、うなぎか、あるいはコース料理の中の一品か。上限のない値段設定となっている一部の特殊な中華料理のようなものはさすがに食べたことがないし、中華でそのレベルのものは料理というよりもはや薬に近い。高い肉の良さはまったくわからない。安い肉のまずさはわかるのだが、安くてもうまい肉というのもけっこうあると思うし、安い肉をうまく調理したときの「高い肉との差」は脂肪の含有量以外はほんとうによくわからない。ウイスキーとか日本酒の類は、高いものは高いけれど、料理ほどの高さではないように思う。ワインはバカみたいに高いものを一度だけ飲んだことがあるが、うまいなーと思ったけれどどういううまさか表現できなかったので正直もったいなかった。その味をわかるためにたくさん金を使わないといけないんだよ、つまり、ほんとうにうまいものは金をかけないと味わえないんだ、と言っている人間はとても多いが、めちゃくちゃ欺瞞だなと思う。人生には欺瞞は必要である。
ところできのこ・たけのこのようなお菓子を長いこと食っていない。念のため、ここでいうきのこ・たけのこはもちろんそのままの素材のことではなく山、里のことであるが、最近のお気に入りはサラダ味、つまり塩味のせんべいである。血圧を気にして減塩ぎみの毎日だからかたまに食うと妙にうまい。ドラッグストアなどで売っていてたまに買う。これ、パッケージはよく覚えているのだが、商品名がまったく思い出せない。商品名を一切見ないで買っている。そういう商品がいくつかある。たまに買う定塩銀鮭も正式な商品名を思い出せない。きのこ(山ではなく本物のほう)も、具体的にどういうきのこなのか覚えていないものがある。外付けの価値を買わずに味だけを買っている、というと、言い過ぎか。この場合の外付けの価値というのは値段ではなく情報を意味するので、またちょっと違った話になるけれど。