AIがなんでも上手にまとめてくれるから、あらゆる講演がクソつまらなくなりつつある。特にお薬屋さんのしかける弁当会、あれはもう、過渡期というか、大黒柱の底がまさに抜けたところというか、クオリティがまじでやばくなっていてこの先いろいろ変わっていくだろう。今とにかく大事なのは「声の張り」だったり「しゃべりのテンポ」だったりするのだが、そういった「発し方」についても今後はAIで分析されて指導されて似たようなかたちに揃っていくのだからもう始末に負えない。ただ。
思うのだがそもそも社会とはAI前からいつもそうだったではないか。先日、人気タレントが書いたあるエッセイを読んだのだが、それが見事に当代の人気エッセイストのそれとそっくりなので、私は途中から「これはつまりオマージュなのかな?」と勘ぐってしまった。もしや、AIで壁打ちした編集者とのアイディア出しの末に書かれたものか、もしくはAIが選んで売って世に広まりやすくなったものかとも思ったが、奥付を読んでみるとそのエッセイの初出は2020年くらいで、それはつまりAIが市井に降りてくるより前のものなのだ。となると、私がこのエッセイに感じたAIみというのものは、じつは単に時代や社会の選択圧を乗り越えて私のもとに届くものがたいてい似通っているよねというだけの話であるのかもしれない。
似たものばかり。似たものばかり。j-POPだってファッションだってファミコンだってアニメだってずっとそうだった。詩ですら、絵画ですらそうなのだ。それをAIがモノマネしているだけの話。私の話もどこかで読んだことある部品ばかりでできている。オリジナリティを出そうと思えば自分の体験に立脚させるほかない、体験に根ざしたものから芽を出させて花を開かせればその実は間違いなく自分から出てきたものだ、でもその体験はプランターの土みたいなもので、ホームセンターで売っていて、石灰も肥料もぜんぶ売っていて、実のなりやすい苗というのは基本的には接ぎ木なのである。体験すらコピペ。神が生き死にできた時代がうらやましい、と、現代の哲学者は言うだろう。
AIが「よりただしい結果」を出すためのプロンプトをいかに上手に打ち込むか、みたいな小さな競争があちこちで起こっていて、つまらないのでやめろという。かつて、山下達郎が、紅白歌合戦に出てきた美空ひばりのCG✕AIに激怒して、あれは冒涜だとラジオで言っていた。なにを小さいことを言っているのだろうと私はそのときおかしくておかしくて仕方なかった。でも今は彼の言いたいことの先がすこしわかる。山下達郎の歌ほどAIが学習しやすいものもじつはないだろう、彼の歌は世代を超えて浸透するくらいには「人のこころの最大公約数にマッチするもの」なのだから、つまりそれはものすごくAI的だということで、したがって彼はもし今後新たな歌を出さなくなったらとたんにAIによって彼の作ったような歌を量産される運命にある。それを冒涜と言い切れるのは山下達郎を体験し山下達郎に立脚した山下達郎だけだ。山下達郎は自分を守るためにとことんただしくAIにNOを突きつけた。それは滑稽かもしれない、しかし切実だ。でも私は山下達郎ほどには真剣になれない、なぜならAIは私を学習に足る人間だと認識しないような気がする。私は冒涜される価値すらない。だから私は山下達郎の放言に今もうっすらと白けているのである。