監査上で指摘されるため欠席される場合は必ず代理者の出席をお願いします

「第237回医療安全推進委員会の開催について」のお知らせがデスクに届く。237回も推進してまだ推進しなければいけないというならそれはもう、ピラミッドの前で半裸の男性たちが木の棒を押して回す例の歯車みたいなもので、どれだけ推・進しても達成は叶わないのではないかと思うわけだが、本当はこの委員会でやっていることは推進というよりも補修とか調停に近いものであり、それならまあ1000回でも10000回でも続いていくだろう、おそらく病院が潰れるより先にこの委員会がなくなることはないだろう、よかったね、この委員会を実行している人、仕事があってよかったね、と、若者を見るような気持ちで目を細める。

「目を細める」のところで瞳孔を縦に細めることでネコになれる。利点はかわいがられること。欠点は毛深さと付き合う必要が出てくること。



通勤カバンがだいぶ古ぼけてきた。もともと安い上に革製品に対するメンテナンスをしていないから持ち手のところが乾燥してばきばきになっている。手帳、名刺、病院用スマホ、常備薬くらいしか入れていなくて、ノートPCを入れるとチャックがしまらなくなるくらいの小さいもので、気に入ってはいたがさすがにみすぼらしい。リュックを検索。背板のところにウレタンが入っていて、ここにパソコンを入れれば衝撃を吸収できると書いてあるものが多い。チャリ通勤だったら便利だろうなと思う。公共交通機関でも邪魔にならずに使えるだろうか。

でもそもそも私はPCを持ち運ばない。同僚や知人に言うと驚かれる。家では仕事をしないんですか? はい、何もしません。出張のときは? はい、しません。相手は黙り、言外に、(そんなに忙しくないからそれができるんだろうな)という雰囲気をにじませる。例外は子持ちの医師たちだ。家のことが忙しいとそうなるよね、という表示が頭上の電光掲示板に流れていくのが見える。まあ、なんか、そうやって、PCを持ち運んでいないと言うと、なめられたり、慮られたりする。

私は、みんなほど忙しくない。そのぶん家のことをいっぱいやっているかと言えば、そんなこともない。子も育ちきって、送り迎えもない。移動の機内や車内で、あるいは帰宅したあとに、仕事などせず、できれば本を読みたいという気持ちは、まあ、ある。しかし本を読むために「あえて」PCを持ち帰らないというのはちょっと過激すぎる物言いだ。うそぶくのは悪くないけれど単純にうそである。ただ、面倒なのだ。PCを移動させることが。PCに四六時中追跡されることが。スマホとて同じこと……と言えれば格好がつくけれど、それほど一貫してもいなくて、スマホは必要。だってKindleで本を読むから。あまり強いポリシーはないまま、ここまで、PCを運ばずに暮らしてきた。ちなみに、だったら、ノートPCを買う意味がないよな、という指摘は、自分でも思う。デスクトップでいいではないか。しかし、「万が一」のことを考えて、いつもノートPCを買ってしまう。この一貫性のなさ、商売をする人間ならば足の裏がむずがゆくなるだろう、しかし、現実、そんなものだ。iPad? 使ったことがない。デバイスを増やすのが面倒ではないか。



物語は後付けである。近似である。次元圧縮である。有限化である。乱流を制御するための流路の単純化である。物語を先に置いておき、それに行動を添わせることで、ノイズに視線をさまよわせなくてよくなるというメリットがある。私もよく、このブログの内外で、物語を先に走らせている。

しかし「PCを持ち運ばないこと」については、これといった物語を用いていない。だからしどろもどろになる。それはパチンコの玉。射出の初速に依存しつつ、トリガーの先端形状やクギの柔軟性などの乱数によって、カオスエッジの向こう側を滑落していくパチンコの玉。いくつもの玉が毎回異なる場所に収まって、その一部が確率としてスロットを回し、私はスロットが回り始めたのを見てはじめて、どれかの玉がどこかのポケットに入ったことを事後的に認識する。終わってからデータを抜き解析をはじめるブラックボックスだ。移動断絶推進委員会が開催される。ネコの目。逆立った、背中の毛。

先行上映会に抽選でご招待

いつもとおんっなじように寝たのに、出勤中、今日はずいぶんと眠たくて困った。意識が飛びそうになる。奥歯がぐらついているような頭重感をまとったまま歩く私は体表2センチをミノフスキー粒子で保護されていて世界から隔絶されている。電波を受信するタイプの妄想というのがあるが、電波を遮断するタイプの妄想というのもあるのではないかと考える。世間から自分が隔絶して・かつ・電波を受信するというセットに対して、世間と自分との境界がわからなくて・かつ・電波を遮断するというセット。後者はつまり「若者のすべて」のような気もする。この歳になってこれはちょっとやばいなという危機感がある。

まあ眠たいからやばいのだろう。眠たくなければやばくない。そう信じるというていをとる。

山火事のニュースが多くて悲しい気持ちになったまま寝たのが良くなかったのだろうか。「良くなかった」でいえば、それはもちろん、山火事なんてものが起こるのが一番良くないわけで、山火事のニュースを見て悲しい気持ちにならないほうがよっぽど良くないわけで、つまり、山火事のニュースをたくさん見て悲しくなるところまでは、良くなくない。となると、改善ポイントはどこにあるか。意外と介入可能箇所が少ない気がする。悲しい気持ちになったまま寝るのが良くないということならば、寝る前にはおだやかで楽しいことを考えればいい、くらいか。無茶な話だ。睡眠というのは考えが尽きた瞬間に訪れる。逆か。考えが絶えた状態を睡眠と呼ぶ。ろうそくの火が消えるように考えが消え去る、その直前に、いったい何を考えていようかなんて、コントロールできない。良いも良くないもない。良くないことなどなにもない。しょうがないことしかない。しょうがないことだけが世を満たしている。

頭の中にしょうもないCM音楽がリフレインしている。とれとれ ぴちぴち カニ料理。もうろうとしながら歩いている今、交通事故に巻き込まれて命を終えたとして、私が最期に脳内に流していた音楽がキダ・タローのそれだとして、なんか、たぶん、天国に行けるだろうなという気は少しする。天国への道行きに口ずさむ曲がデューク・エイセス。ぴったりだ。しかしCMか。まあそういうままならなさはある。

私はもっと、たくさんの名曲(笑)を聞いてきたはずだ。オルタナ、プログレ、クラシック、そういったものを一切合切さしおいて、今際の際に走馬灯のBGMとして流れるのがCM音楽であったりゲームミュージックであったりする可能性は極めて高い。令和にゴエモンばっかりコスんな(ナナシノ)。ゲームミュージックのメタルアレンジをするFamilyJulesというYouTubeチャンネルがあってたまに見る。良い夢が見られるとは思わない。スーパーマリオワールドの音楽が流れると、あの、SFCの4つに増えたボタンの一番下にある黄色いBボタンを押した時の、マリオとヨッシーが一体となった状態でのもっさりと重たいジャンプの「遅延感」が指先に蘇る。触覚と視角のずれのすきま、カーテンのひだの裏、ドーナッツの穴にひそむ走馬灯のフィルムのひときれ。

黙れ子ゾウ

ワイシャツにベストを着て病院内を歩いていると、患者や看護師や医療事務員などがふだんこれくらいの年齢・背格好の中年男性に対してどのような態度を示しているかがしみじみ伝わってくる。患者の多くはよくも悪くもフツーだ。たまに横柄な態度をとるものもいる。ただ、まあ、なんかそういうのはコンビニでも駅でもよく見るので、そういう人格なんだろう、くらいで済む。しょうがない。あわれむ気もさげすむ気もない。ただ、そういう人なんだろう、と思う。

一方ですごいなと思うのは看護師やクラークや技師たちだ。日頃から患者に対して優しく・仕事としてしっかり接しているのを見ているだけに、落差が際立つ。「身内」であると判断された事務職的中年男性に、これほど冷たく当たるのかというくらい冷たい。あいさつなどしない。進路を塞いでなくても「これから私が歩くかもしれない進路を塞ぐな」という目で見てくる。用事があって話しかけると返事がつっけんどん。アゴで指し示す。用件を述べてもまっすぐこちらの言うことを受け止めてくれないで、なんというか、野球のバッティングのアドバイスのような、「自分のタイミングで打つ」みたいなことをしてくる。ひとつひとつが小さく違和感を生じさせる。不快とまでは言わないのだが、「……ん?」という気持ちになる。

これはつまり、私くらいの年代の男性というのが、彼ら・彼女らにとって、ほんとうにめんどうな世代なんだろう、ほんとうにやりにくい対象なのだろう、というのを想起させる。これは悪意というよりも最適化の結果なのだと思う。まとめてしまって申し訳ないが、こういう世代のせいで、こういう人たちにおかれましては、ほんと、ごめんね、と思う。いやな世の中の責任の一端が、他人ではなく自分にあることをしみじみと感じる瞬間でもある。



日替わりのデスクトップ壁紙、今日は、親子のゾウが向かい合って枯れ草かなにかを食べている光景だ。前面で向かい合っているゾウ2頭にびしっとピントが合っていて、背景は遠くぼやけたサバンナのようである。先程まで、他人からの明確な悪意を口に突っ込まれたような気分で、これをそのまま飲み下しても腹を壊すだろうと、なんとなく、仕事もせずに呆然とデスクトップを見ていて、あることに気づいた。親のゾウの肌はしわしわだ。深い溝が四肢の短軸方向に向かって無数に走行しており、胴体にも斜めのぶっちがいのような交差する溝がたくさん刻まれている。ただ、それが、親のゾウだけではなく、子ゾウのほうにも、サイズ感のみ縮小した相似のテクスチャでしっかりと刻まれている。私はこれまで、ゾウの肌を見ていると、これは長生きしているからついたシワなのだろうなとぼんやり思っていたのだが、なんのことはない、子ゾウにも同じ溝がついている。となればこれはシワではなくて指紋のようなものなのだ。目の周り、鼻の付け根、「おでこ」の部分、子ゾウであってもわりとしっかりした溝がある。ゾウとは「加齢によるおだやかさ」をそなえた動物だと思っていた。しかし子ゾウだってしわしわだ。つまりそういう生き物なのだ。

ではゾウの加齢はどのあたりに現れるのか。体のハリとかかな、顔の傷とかかな、どうもよくわからないなと思ってあるところではたと気づく。キバだ。子ゾウにはキバがない。親ゾウには長くて日々の入ったキバがある。ほかはあまり変わらないかもしれない。耳のよれ具合、顔面のシミ、背中の肌荒れあたりが、あるいは年齢に伴って増えているのかもしれないけれど、圧倒的に、「ああ、違う」とわかるのはキバだった。年を取ると、相手を威嚇し、傷つけるための器官が一番変わっていくということだ。私は目の前にちゃぶ台を召喚して、その上にミカンのカゴや湯呑みも召喚し、あぐらをかいてその前に座って一気にひっくり返す。あーあ。年を取るって、そういうことなのかあ。

子ゾウはうまそうにワラかなにかを食っている。鼻のわきや頭の上に、ワラが乗っかっていて、そういうのは大人のゾウには見受けられない。まあ、大人になると、食べ方がきれいになるということは、あるかもしれないな。

落選

SNSのトレンドというのは内閣の支持率みたいなもので、母集団の20数%くらいにしか認められていなくても、ほかの選択肢の支持がそれよりはるかに低ければ第一党になれてしまって、つまり、「一番人気だけど国民の多くはべつにそこまで興味がない」ということが生じる。知らない芸能人、知らないスポーツ選手、知らない事故、知らない不祥事。えっ、私、そんなの応援してないよ。大丈夫、世の中で一番支持されている話題ですよ。毎日こんなミスマッチ。そういう建付け。

その他大勢、という言葉を、「おおぜい」と読むよりも、「たいせい」と読んだほうがふさわしい。ただし大勢とは寄せ集めである。「支持しないことで一致団結する集団」などというものは存在しない。団結したらそれが第一党になるはずだがそんなことはない。互いにいがみ合いながら第一党に対してはひとからげに文句を投げつける。そんなものだ。これは政治の話ではない。SNSのトレンドの話だ。

視聴者数や購読者数を稼ごうと思ったら、なにかに与してはいけない。第一党ですら20数%にしか支持されていないのだから、そういったものに同調、認知、共感するような発信をしても効率が悪い。するなら反論だ。第一党に反論をすれば、100マイナス20イコール80%前後の「大勢」に届く可能性がある。こうして、広くたくさんの人に読んでもらえるレベルの美文・公文を書ける人間たちは、次第に組織の中で、第一党に反論するような文章ばかりを書くようになる。

発信者の手法として「反論」がいわゆる第一党になる。しかしそれもまた20数%の一番人気に過ぎない。80%弱の人間は、「マスコミのやりかたは別におもしろくねぇな」と感じている。

次は、マスコミほど強い発信力を持たない、比例代表で1人を送り込めるかどうかという小政党のような発信スタイルが見直される。与党のように世間に対する責任を負う必要はない。自分たちがぜいたくに暮らすのに必要なぎりぎりの金額だけ稼げるだけの客を囲い込めばよい。それが世間の1%だろうが0.5%だろうがかまわない。視聴者の総数を稼がなくてもよい、視聴者からむしる金銭の単価を釣り上げればよい。そういう目算を立てると、強い与党が存在しないことはむしろ、追い風になる。一番人気が不在なほうが弱小政党にとっては都合がよい。

そうやってうまく回っていく。

ちなみに政治とSNSの大きな違いとして、SNSのほうは毎日与党が入れ替わる。昨日は知らないアイドルグループの新曲が発表され、今日は知らない詐欺師が捕まり、明日は知らない炎上が知らないままに吹き上がって鎮火する。否が応でも第一党がしばらく持続する政治の世界とは、そこが違う。与党がない。だから長期的な政策も望めない。刹那的に毎日その場しのぎの繰り返しで構築された複雑系は、毎日解放が変わる脱出ゲームのようなものだ。

動物園でのんびり大型動物などを3時間ほど見ているうちに世の中の50%くらいが入れ替わる。映画作品の1本あたりの長さはトレンドがぎりぎり移り変わらない時間である89分くらいに設定される。

小さくなり、短くなり、揺れて、入れ替わる。ふるいにかけられた小麦粉のようだ。後に砂金が残ると信じている人もいる。


こういうのを見ているうちに、「おとなしく暮らしたい人々」はだんだん、政治とトレンドについて語ることをやめる。デフォルトが反論と日替わりで構成されていると攻撃性や射幸心が強すぎて胸やけしてしまうのだろう。みんなの価値観が細かくすれ違う中で、すこしでも多くの人々の興味にひっかかるような、でも、順位を争うほどでもないような話題。

食べ物。

猫。

加齢。

まあそのあたりか、本や音楽が入ってこないのが残念ではあるが、そんなものであろう。私はどれも選ばずにダジャレを選んだ。比例に1席も送り込めなくて、政治家になれない。

さげすまないサゲ

米粒写経の映画談話室というYouTubeが好きで毎月見ている。映画評論家の松崎健夫さんが、先日、番組の冒頭のフリートーク的な部分で話したエピソードが印象的で、ちかごろよくそのことを考えている。

それは、「こんなにうまいものがあるのかと感動した」という言葉からはじまる。映画を見て評論をする以外の印象がまったくない松崎さん、着るものは黒で統一しており(選ぶのが面倒だからだろう)、映画以外の理由で旅行に行くこともなさそうな松崎さんが、めずらしく飲食の話などするので、その時点でかなりフリが効いていて、そうかそうか、どんなうまいものを食ったのか、とみんなワクワクして先を待つ。すると彼がこの度はじめて食べたうまいものとは、

「うまい棒 めんたい味」

であった。そんなこったろうと思った。

「いいですかみなさん! ひとつのことに人生を捧げてしまうと! こうなります! 人生の98%くらいを映画に捧げてしまったばっかりに! この人はこんなことに!」

中年も半ばを過ぎて、うまい棒のめんたい味をはじめて食べて感動するというエピソード。それを笑いながらも我がこととして受け止める私の心。近年、ときには「かわいい」とすら称されるタイプの偏り。毒はないがしびれる。自虐のような自尊。なんだかいろんなことを考えてしまう。

他者のあらゆる経験にいっちょ噛みできる環境に暮らす今において、「えっ、それをまだ経験していないの?」という驚きが強まっているとも言えるし、逆に、体験が個別化しすぎていてお互いの記憶を共有しづらくなっている今において、共通言語としてしっかり機能している「うまい棒 めんたい味」がすごいとも言える。真逆のことを言っている。しかしこれらは階層が違う話だ。

TikTokで万バズした動画のネタが半年遅れくらいで紅白歌合戦に流れたときに大人たちが「これ流行ったの?」と子どもに聞くと、えっ、今さら? と冷たい反応をされる、みたいなやつとも、構造としてはそんなに離れていない。でも、「うまい棒 めんたい味を生まれてはじめて食べて感動した中年」という内容には、ある種の断絶みたいなものがあまり感じられない。思えば不思議なことだなと思う。根本には、YouTubeの収録スタジオ内に、松崎さんの映画愛に対するスタッフ全員のリスペクトが注ぎ込まれているという前提があって、だからこそ温泉の泡のように暖かくはじける笑いが場に満ちたのだとは思う。

つまりあそこにあったのは、近年、あまり見ることのなくなった、

「それを今まで知らなかったの? →(からの)→ サイコーじゃん」

という展開というか空気だった。私はそれをなんだかすごく尊いと思ってしみじみ2回ほど見てしまった。今わりと切実に、「おかしのまちおか」に行きたい。