ゆくすえを振り返る
選択圧の抜け道
名前のついていない家事のように
洗い終わった食器を、水切りラックの上にのっけて水気を軽く切ってから、ふきんで水気をふきとって、シンクの邪魔にならないところにならべて完全に乾くのを待つ。
それに似たことをする。
自分の元にやってきた出来事、困った出来事、尖った出来事、豪速球のような出来事、びっしょびしょに濡れた出来事。これを、段階を踏んで乾かして、収納しやすいように処理するということ。
水垢がつかないように。
水切りラックにカビが生えないように。
到来したあれこれに、ただちに善悪とか是非の評価をすることをやめよう。さりとて無分別にゴミにしてしまうのもやめる。順を追って保留しよう。そういった態度でいるようにしよう。生活に落ち着きが出る。
近頃は誰もが発達障害がどうとかADHDがどうとか素人のくせにやけにべらべらと「認定」をするようになってしまってやりにくい。そんな簡単に、ただちに整頓してしまいこむから細部が失われて嘘が増えていくのだ。
自分に向かって突進してくる剛速球を直接ミットでキャッチしようとしてしまう欲望を少し抑える。何段階かの緩衝材に激突させながら減速をかけていく。
そういう心構えのほうが世界の進む速度が少しゆるやかになるのではないかと思う。
「今、本当に時間がないんです」。1年以上私の依頼に返事を返さない大学のスタッフがこう言った。頭を下げるでもなく、口角を少し上げたままで。彼が「時間を割く」ことはおそらく今後もないだろう。なぜならば彼は私の催促に対して「この場でこのように応える」ことをすばやく選んでしまう程度の男だからだ。仕分けのスピードに言い訳のスピードがきちんと追いついている。彼は悪びれることもないだろうし、なんなら、私の催促が「空気を読んでいない」「自分の仕事を知れば、催促自体がよくないことだとわかってくれるだろう」と考えているふしすらある。
そういう人間といっしょに仕事をすることもある。いい、よくない、ではない。水気を切りながら保留する。彼が仕事を止めていることで、いくつかの臨床医に迷惑をかけているが、その責任を彼だけに追わせることも、また私が代わりに引き受けようとすることも、拙速なのだろうと思う。ふきんを取り出して水気をぬぐう。シンクにならべる。りんごなど剥いて、食べてしまおう。お茶を入れて少しのんびりしよう。2時間後、眠りにつくころに、乾いた食器たちを棚にしまおう。でも、棚のとびらは少しあけておいて、明日の朝になったらそこであらためてとびらを閉めよう。段階を踏む。少しずつ乾かしていく。それでもなお、水気の残ったものたちについて、私はじっくりと向き合ってその水気と同化していくことになる。
さいごのカギを獲得したあとのアバカム
あまり頻繁にはやりとりをしていない人からぽつりと手紙が届いた。郵便ではなく宅配便になっていて、小さな品がいくつか入っておりそのどれもが絶妙に必要ない。気の利いた贈り物だと思った。宅配便の伝票に私の知らない携帯電話の番号が書かれていて、それを私はいちおうメモしておいた。
何ヶ月か経ち、ふと思い立って、その携帯電話にショートメッセージを送ってみると、送信後にすぐに小さな赤いバツ印が表示された。無効な番号なのだろう。しゃれが利いているなと思った。
燃え殻さんであればこういった話をとてもふくよかに一遍の随筆にできるだろう。一方の私はただざわつくだけだ。おもしろいことがあったよと、人に言うほど起承転結が、生じているわけでもない、それは偶然と蓋然の積み重ねでできた落ち葉の山が風に吹かれてほろほろしなだれかかっていくときの、粉っぽい空気の、ざらつきの、鼻孔の奥の引っ掛かりのようなもの。
夜が明けて4時間も経つとノートPCの向こうから差し込む光が強くなって、モニタが逆光気味になり目の周縁で光の意味がひっくり返るように思えた。レースのカーテン越しにワイシャツの胸元を照らす陽光の、照り返しが顎からメガネの裏に入り込んできて、少しまぶしい。ホテルのディスポーザブルのスリッパは薄く、足の裏に古いカーペットの湿気が伝わってくる。旅先でしか使わないマウスの反応が弱く、今日は何もかもが不十分な日なのだと納得をする。テレビをつけていないから星占いも見ていないが、今日、たとえば一行、「期待しすぎかも」と書かれていたら私はうなずくだろうし、「見逃さないで」と書かれていたら私は少し目を見開くだろうし、「乾燥しやすい」と書かれていたらマスクを新しいものに変えて、「はじめるなら今日」と書かれていたら覚悟を決める。ただ、いちおう反論をしておくと、期待はしないし、見逃すようなものならその程度だし、乾燥はしていないし、はじめるのは今日ではない。それでも星占いくらいにどうでもいい距離感から投げかけられた言葉を私はどこか愛せる。
それはこの20年で、もしかすると、私が手に入れたもっとも汎的なスキル。レベルが上がれば上がるほど、手に入る魔法が強力になるという、ドラクエのシステムに私は長年疑問を持っていた。それはフリーレンの世界ではうまく逆張りされたなと思う。魔法というのは、だんだんどうでもよく、マニアックに、使い道の微妙な方向に研ぎ澄まされていくものであるべきだ。それは科学においても言えることであろう。
私は現在レベル47だ。たいていのゲームだとそろそろラスボスと戦う資格が出てくる。メラゾーマやベホマズンくらいは習得できそうな雰囲気もある。しかし現実の私が近頃手に入れた魔法は、「占いが楽しく読めるようになる」とか、「胸の苦しさを水だけで解消できるようになる」とか、「懐かしい人の顔を適度に忘れても悲しくなくなる」といった、使い道がなく味わいやすいものばかりである。レベルアップというのはそういうものである。スキルアップなんて恥ずかしい言葉を同義と思っていてはだめなのだ。
下品
Xで、私がフォローしていない人間が私の異動についてポストしていて、笑ってしまった。そういうことをするとわかっているから私は彼をフォローする気が失せる。
ゴシップ。うわさ。コネ。出処進退。世の中で語られることのほとんどすべては人事だ、と、プチ鹿島局員(東京ポッド許可局)は言った。私は膝を打つ以前に「はぁー、これはなんとも、世に失望するためにひどく便利な言の葉だなあー」と感心してしまった。たとえばプロ野球に関する話題、先発投手のローテーション、スタメンを固定するか動かすか、中継ぎのタイミング、最近調子のいい打者は誰か、代打のタイミング、監督の采配への物申し、たしかにこれらは、どれもこれも大雑把にくくれば「人事」であろう。永田町、万博、芸能、メディア、なににつけても言えることだ。飲食、旅行の話題ですらも、人事の香りにつつまれることは多い。あるいは学術とか医療に関する話題すら、どの講座がうまくやっているとか、誰が上についたから下は大変だとか、業績を誰がどの順番に出すかとか、研究費がどうとか大会長がどうといった「人事」の話に、確かに吸収されていく。
私たちはいつだって、人に関することばかりつぶやいている。それをプチ鹿島局員はスポーツ新聞から経済新聞までを全部読み切るいつもの作法で「すべて人事」と呼んだ。私はそうやって人事の話ばかりしている人間の多くを、できればそう頻繁に網膜にうつりこまないように、角膜にあらかじめ頼み込む。「ぼかしてくれ、まびいてくれ」。
人事について語る私は実際ひどく下品だ。その下品さを飲み込んでなお、大切なことだからつぶやいているのだと、うそぶくとしたら私は単にうそつきだ。大切ではない。どうでもいい。下劣であることに開き直ったらおしまいだ。
人と人の間に暮らす私たちにとって、人・間のことを語るのが日常になるのは当然のことだ。しかし、必然ではない。人の間に提示して、彼我がそれぞれ眺めて語り合う、キャンプファイヤのようなものが、いつも人のことばかりというのは、おもしろみに欠ける。だらしない。パッキンが緩い。もっとほかに語ることがあるだろう。あれかし。「そちらを選ばないこと」に対して、風にさからって胸を張るように、堂々としてみてもいい。
人の間に暮らして人のことだけ語るなんて。
朝から晩までメールをしている。その大半が人事の話である。がっくりする夜、たしかにある。しかしそれでも、あらがいたい。世の背景にある法則を見つけたいなどと、哲学者や科学者を気取るつもりもないが、世にあるひとごとならぬ事が人に関するものばかりだなんて、小部屋の中のさらに檻に押し込められた獣のようで、頭をかきむしりたくなるではないか。
頭蓋骨の開いた夢
懇親会の最中に軽口の一貫として、「この会に出るといっつも夜に悪夢を見るんですよ。前回は下半身が腰まで消失するユメを見ました」と言って失笑を買った。そして よが あけた。本当に、また、悪夢を見た。私の顔は奈良美智の絵に出てくるようなパースになっていて、頭蓋骨が、陰陽のまがたまのようなゆがんだ曲線に沿ってぱっかりと左右に割れているのであった。中心で割れているわけではなくて、やや脳の左側のほうが多めに露呈している。私は思う、硬膜はどこにいったのかと気になって、そばにある人間の手を掴んで自分の脳の表面に押し当ててみる。目に火花が飛ぶとか異音がするとかいった入力エラーは一切起こらず、UFOキャッチャーで獲得する以外に入手の仕方がわからない謎の材質のぬいぐるみのような不思議な触感が人間の手を通じて感じられた。ああ感染の心配はない、しかし、歩いているうちに何かがこぼれそうなので、少し右にかしいだ状態で、ふるめかしいメトロポリタンホテルの鎧格子を左右にかきわけて私は石畳の道をうろうろとする。そうして目が覚めたとき私はあまりにわかりやすく自分の頭蓋を、もちろん自分の手で確認して、やっぱりユメだったのか、と確認して、それきり目が冴えた。猛烈な勢いで飛び去っていくユメの中身を、上顎洞のあたりでぼそぼそとつぶやいて、何度かこすっているうちに、いつもは急峻に忘れていくはずのユメを今もこうして文章に書けるくらいには記憶することができ、ああ、海馬のカオスエッジを超えて斜面のこちら側に落っことすことができたのだな、と安堵した。
つまりはそういう夢を見るくらいに私は疲れていた。研究会では私の新しい職場の話など一切しなくてもよく、症例のことを何時間も語り合っていればよい。そして懇親会では他大学の教授や地域の重鎮たちと、「枝葉を細かく記述していくだけの作業から、いかにして幹を探り当てていくか」というような、かなり難しいことをやろうとしていた、廃れつつある画像系研究会の最後の矜持みたいなものに関して、世を徹して語り続けた。滅びの美学だとか思い出がたりにならないために、若手を勧誘したいねーみたいな中身のほとんどない中年トークを乗り越えて、自分たちが今なお最前線で若者のようにチャレンジし続けるためにどこからどう取り組んでいくかという話を、大して食い物も入らなくなった消化管に舌打ちをしながら弱いつまみを放り込みつつ延々とこねくり続けた。
私は解剖のことを考えている。腑分け。言別け。ヒトの残骸をディールする。それは常に枝葉をかきあつめて火を付けるような作業になる。必要なのは常に幹に対するリスペクトであり、しかし、森を見るために木からはじめ、根の周囲のマイクロビオームから森をおしはかるような転倒の先に、私はみずからの技術と使命の使い道を見ている。
チェックアウトは11時だ。飛行機はその後でも十分に間に合う。6時に目覚めた私はそれからずっと、大学から送られてきた来週金曜日の研究会症例の解説スライドを作った。できた。葉脈に指を這わせるようなスライド。メイリオに飽きて髄液を吐く。Ki-67すら施行されていないプレパラート群。H&E染色にルビを振る。増殖と分化のみだれ、正常からのかけはなれ、X-Z軸で観察しきれないY軸方向の情報を、液性因子の痕跡を、沈着物の気まぐれを、You canと読み替えることもできるような炎症性発癌的矛盾を、語りの数々を読みやすいようにルビを振る。いつか教わった話。明日教わる話。これらをまぜこぜにしながら、まだ、読みたいと首を伸ばして待っている、頭蓋骨のぱかりと開いた人間たちのためにルビを振って音読をする。