ゆくすえを振り返る
回答は別冊に掲載
令和を生き抜きそうにない憩い
脳だけが旅をする
息子が一人旅の報告をLINEに載せていた。私も旅がしたくなった。
旅は不安の中に身を浸す行為だ。不安が解消した後の安寧によるカタルシスを目的とするのではなく、「不安の中にたゆたうことで自分の体の輪郭がかえってはっきりしてくる現象」を直接求める行為だ。いつか安心するために一時的に不安になりたい」のではなく、不安そのものを求める。それが旅だ。
しかし、今の私が旅をして得られる不安は、かつての私や今の息子が得ている不安とは異なる。
かつての不安は未知がもたらすものであった。
それに対して今の私が得るであろう不安は既知の苦痛との遭遇を予期することによるものだ。
両者はオーバーラップする部分もある。でも、似て非なるものだ。
私もかつて、たいした量ではないがいくつかの小さな旅をした。それはいわゆる「旅行」と呼べるようなものではなくて、たんなる「剣道部の遠征」だったり、「大学院の出張」だったりして、決して「エンタメ」ではなかったし、「サプライズ」でもなかった。それでもやはり旅だった。
なぜならばそれらはすべて未知の不安をまとっていたからだ。
私も旅をした。
今の私にはそういう旅はもうできない。失ったともいえるし飲み込んだともいえる。
かつて十分に旅をし、それらを心にしまい込んだ今の私は、段取りや手続きが主たる目的となった旅程を、既知に囲まれてただ黙々と歩む。
何日どこにいけばだいたいどういう気分になるかがわかる。
困りごとがあってもどう動けばどう解決できるかがわかる。
不安は減り、たくさんの安心の手段を手に入れた。
人はそれを旅慣れたという。
バカじゃないのか。旅に慣れたら旅はできない。
「世界は広いよ、知らないことがたくさんある」と言って、にやつく大人を信用しない。
そういう人間の語る「旅」は、語彙がおよそ630語くらいの単語で形成されている。小学生がならう英単語の数くらいだ。
知らないことがたくさんあるというわりに、毎回使う単語がいっしょ。
国語力の問題をどうこう言いたいわけではない。私だって別にそんなに言葉を使いこなしているとは思わない。
でも、結局のところ、彼らは旅に未知を求めていないのだ。だから既成の言葉でみずからの経験を言い表すことに疑問も恥ずかしさも持たない。
そんな人間のいう、「旅に出て知らない人と合うことで自分が広がるんですよ」みたいな言葉の空洞に涙を吸われて私はカラカラに乾いた。
「旅好き」を名乗る大人のほとんどは、既知の順列を入れ替えて「新しい世界」と言ってみせるペテン師だ。
「知らないことがたくさんあってそれを知りに行くのが楽しい」とはつまりスタンプラリーである。景品がもらえたらいいですねえとすなおに願う。
それが楽しいと思う人はそれが楽しいと思う人どうしでにやにやしていれば別にかまわない。しかし、「あなたも旅に出たらいいですよ」とは本当にどの口が言っているのかと不思議に思う。
私の旅をあなたは定義できない。
私は旅がしたくなった。不安の中に身を置くことを純粋に目的とした旅。誰かの既知を自分の未知に押印するような「手続き」から自由になれる旅。私は息子にあこがれ、かつての自分にあこがれる。既知の隙間に未知を探しにいく。風景の中にも会話の中にも美食の中にも自分の不安は落ちていない。ないものねだり。旅はむずかしい。旅は困難だ。本当の旅を再びできる日がくるだろうか。それは私が解決しない困難と不安の中に自分を置き続けるだけの胆力をもう一度取り戻すことを意味する。息子にあこがれ、かつての自分にあこがれる。今の私は未知にみずからをさらすことを極端に恐れている。旅はこわい。旅はくらい。私は旅がしたくなった。安心を差し出す人々から解き放たれるような旅。風景の中にも会話の中にも美食の中にも自分は落ちていない。不安の中に自分がいる。脳だけが旅をする。
ブログやめない理由
いよいよ次の本の原稿を書き始めた。ただ、「次に出る」本という意味ではない。私が「次にこれをやるぞ」と思っている本という意味である。たぶん原稿を書き終わるころには、別の本が2,3冊ほど出ているはずである。今のこれについてはゆっくり書く予定だ。どれくらいゆっくり書くかというと、1日に2000字くらいずつ、週に3~5日ほど書いて、月に20000字として、2ヶ月で3万字、半年で8万字、1年で15万字といったところだろう。私の平均的な仕事量で中央値をとってそれくらいの文字数で完成すると思う。計算が合わないのは書いている途中で前に戻って構成しなおしたりする展開を考慮している。
これまでは3週間で9万字書いて一冊の本にしてきた。今度のは、ペース配分も中に含まれる意図の量もかなり違う。すでに1年くらい、おおげさではなく本当に毎日次の本のことを考えて日々を暮らしてきた。正直に述べるとこのブログを書く際も必ず(100%)、次の本に書く可能性があるネタだろうかということを思い浮かべてから書いていた。だから今、瞬間的に、ブログをやめて本に集中するべきかと思った。しかし、ブログをやめて、かわりに毎日は本の原稿を書くというやり方がほんとうによいのか、それが私にとってよいことなのかが疑問である。これはこれ、あれはあれ、でよいのかもしれない。「あの話を書きたいけどブログに1800字くらい書いちゃったからもう書けないなあ」みたいなネタもあるからブログのせいでアイディアが枯渇していっているとは思う。しかし逆にいえば、手癖だけで1800字くらい書けてしまう内容を本にしてもしょうがない。そういう「小ネタ」や「大ネタだけどスピードでさっさとまとめてしまうネタ」はブログに放流していったほうがいい。
多くの人が指摘し続けていることだけれど、毎日何かを続けるというのは確かに力になる。惰性・慣性とは違う。世の道には摩擦があるので、等速で運動しようと思ったら加速度を加え続けなければいけない。力を込め続けなければ同じ速度で進み続けることはできない。黒板の中(理論的な環境)で等速直線運動といったらそれは静止していることと変わらないが、しかし、現実世界だと、等速直線運動をするためにはエネルギーを運動量に変え続ける必要がある。エンジンを常に回し続けるためには給油もしなければいけないしメンテもかけなければいけない。
ただ、じゃあ、毎日何かを続けていればそれが最高なのか、というところまで考えを進めたほうがいいだろう。毎日何かを続けていることが、端的に「甘え」になるという感覚がある。今、そういうことをちょっと考えている。
毎日何かを続けることは確かに大変だ。しかし「毎日何かを続けることに慣れた」時点でその運動はかつてほどエネルギーを使わなくてよくなってしまっている。たとえばこのブログだってそうだ。書くことに対する筋力がついたからたいした手間ではない。たいした手間ではないということはそこでさらなる筋力を付ける訓練にはなっていないということである。だったらブログを毎日2本ずつ書けばいいのか。そういうことでもないと思う。「こうやってこうすればこれくらいの時間でこうなる」というのがある程度読めた状態では、同じメソッドに沿ってプロダクトを2倍、3倍と作ったところで脳内におけるなにかの消費がそのまま2倍、3倍と増えていることにはならない。
そして私のような人間はすぐ、「俺も地味に10年これをやっているからさあ」とか、「この業界で20年暮らしているとわかるんだけど」みたいなしゃべりかたによっかかってしまう。ついさっきも、「すでに1年くらい、おおげさではなく本当に毎日次の本のことを考えて日々を暮らしてきた」みたいなことを平気で書いてしまっている。継続しておけば大丈夫なはずだという幻想にとらわれている。等速を維持するやり口がもたらす「漏出」があるのではないか。その漏れ出しは、毎日何かを続けることによる利得を相殺しているということはないか。
単純に続ければいいとは思わない。しかし、「もう十分筋力はついたから、この継続をやめにしてその分の労力をつぎ込もう」という発想もまたまずいのではないか。たとえば私は今、このブログを書き続けることにさほど労力をかけていないので、それをやめにしたところで大して「力が余る」わけではないので、ブログをやめても「継続がとだえた」というマイナスが引け目に転換するだけで、ほかにやりたいことに振り分けるパワーが特段増えるわけでもないだろう。すでに私の継続は、「続けていてよかった」の段階を超えて、「やめるにやめられないが続けていてもこれ以上うれしいことはない」というところにあるのかもしれないと思う。
それでもなお、「継続は力だ」と言いたがる人がたくさんいるというのはよくわかっている。卑下するほど悪い行動ではないというのもよくわかる。しかし、たかが続けているだけだ、という気持ちを完全に失ってしまうのはもったいない。ブログはブログだ。たいした手間ではない。それはこれからも続けていけばよい。やめても得はないし続けても損はない、くらいの気分でよい。そしてこれとは別の部分で何かを成し遂げていかないといけない。「ブログやってるからなんとかなるだろ」ほどつまらない話もない。何かの役に立つために何かを続けているなんてどうしてもおもしろいと思えない。もういい歳なのだ。ブログくらい平気で続けてよいしそれを人に誇ることでもない。黙って書き続ければいいのだ。