黙れ子ゾウ

ワイシャツにベストを着て病院内を歩いていると、患者や看護師や医療事務員などがふだんこれくらいの年齢・背格好の中年男性に対してどのような態度を示しているかがしみじみ伝わってくる。患者の多くはよくも悪くもフツーだ。たまに横柄な態度をとるものもいる。ただ、まあ、なんかそういうのはコンビニでも駅でもよく見るので、そういう人格なんだろう、くらいで済む。しょうがない。あわれむ気もさげすむ気もない。ただ、そういう人なんだろう、と思う。

一方ですごいなと思うのは看護師やクラークや技師たちだ。日頃から患者に対して優しく・仕事としてしっかり接しているのを見ているだけに、落差が際立つ。「身内」であると判断された事務職的中年男性に、これほど冷たく当たるのかというくらい冷たい。あいさつなどしない。進路を塞いでなくても「これから私が歩くかもしれない進路を塞ぐな」という目で見てくる。用事があって話しかけると返事がつっけんどん。アゴで指し示す。用件を述べてもまっすぐこちらの言うことを受け止めてくれないで、なんというか、野球のバッティングのアドバイスのような、「自分のタイミングで打つ」みたいなことをしてくる。ひとつひとつが小さく違和感を生じさせる。不快とまでは言わないのだが、「……ん?」という気持ちになる。

これはつまり、私くらいの年代の男性というのが、彼ら・彼女らにとって、ほんとうにめんどうな世代なんだろう、ほんとうにやりにくい対象なのだろう、というのを想起させる。これは悪意というよりも最適化の結果なのだと思う。まとめてしまって申し訳ないが、こういう世代のせいで、こういう人たちにおかれましては、ほんと、ごめんね、と思う。いやな世の中の責任の一端が、他人ではなく自分にあることをしみじみと感じる瞬間でもある。



日替わりのデスクトップ壁紙、今日は、親子のゾウが向かい合って枯れ草かなにかを食べている光景だ。前面で向かい合っているゾウ2頭にびしっとピントが合っていて、背景は遠くぼやけたサバンナのようである。先程まで、他人からの明確な悪意を口に突っ込まれたような気分で、これをそのまま飲み下しても腹を壊すだろうと、なんとなく、仕事もせずに呆然とデスクトップを見ていて、あることに気づいた。親のゾウの肌はしわしわだ。深い溝が四肢の短軸方向に向かって無数に走行しており、胴体にも斜めのぶっちがいのような交差する溝がたくさん刻まれている。ただ、それが、親のゾウだけではなく、子ゾウのほうにも、サイズ感のみ縮小した相似のテクスチャでしっかりと刻まれている。私はこれまで、ゾウの肌を見ていると、これは長生きしているからついたシワなのだろうなとぼんやり思っていたのだが、なんのことはない、子ゾウにも同じ溝がついている。となればこれはシワではなくて指紋のようなものなのだ。目の周り、鼻の付け根、「おでこ」の部分、子ゾウであってもわりとしっかりした溝がある。ゾウとは「加齢によるおだやかさ」をそなえた動物だと思っていた。しかし子ゾウだってしわしわだ。つまりそういう生き物なのだ。

ではゾウの加齢はどのあたりに現れるのか。体のハリとかかな、顔の傷とかかな、どうもよくわからないなと思ってあるところではたと気づく。キバだ。子ゾウにはキバがない。親ゾウには長くて日々の入ったキバがある。ほかはあまり変わらないかもしれない。耳のよれ具合、顔面のシミ、背中の肌荒れあたりが、あるいは年齢に伴って増えているのかもしれないけれど、圧倒的に、「ああ、違う」とわかるのはキバだった。年を取ると、相手を威嚇し、傷つけるための器官が一番変わっていくということだ。私は目の前にちゃぶ台を召喚して、その上にミカンのカゴや湯呑みも召喚し、あぐらをかいてその前に座って一気にひっくり返す。あーあ。年を取るって、そういうことなのかあ。

子ゾウはうまそうにワラかなにかを食っている。鼻のわきや頭の上に、ワラが乗っかっていて、そういうのは大人のゾウには見受けられない。まあ、大人になると、食べ方がきれいになるということは、あるかもしれないな。

落選

SNSのトレンドというのは内閣の支持率みたいなもので、母集団の20数%くらいにしか認められていなくても、ほかの選択肢の支持がそれよりはるかに低ければ第一党になれてしまって、つまり、「一番人気だけど国民の多くはべつにそこまで興味がない」ということが生じる。知らない芸能人、知らないスポーツ選手、知らない事故、知らない不祥事。えっ、私、そんなの応援してないよ。大丈夫、世の中で一番支持されている話題ですよ。毎日こんなミスマッチ。そういう建付け。

その他大勢、という言葉を、「おおぜい」と読むよりも、「たいせい」と読んだほうがふさわしい。ただし大勢とは寄せ集めである。「支持しないことで一致団結する集団」などというものは存在しない。団結したらそれが第一党になるはずだがそんなことはない。互いにいがみ合いながら第一党に対してはひとからげに文句を投げつける。そんなものだ。これは政治の話ではない。SNSのトレンドの話だ。

視聴者数や購読者数を稼ごうと思ったら、なにかに与してはいけない。第一党ですら20数%にしか支持されていないのだから、そういったものに同調、認知、共感するような発信をしても効率が悪い。するなら反論だ。第一党に反論をすれば、100マイナス20イコール80%前後の「大勢」に届く可能性がある。こうして、広くたくさんの人に読んでもらえるレベルの美文・公文を書ける人間たちは、次第に組織の中で、第一党に反論するような文章ばかりを書くようになる。

発信者の手法として「反論」がいわゆる第一党になる。しかしそれもまた20数%の一番人気に過ぎない。80%弱の人間は、「マスコミのやりかたは別におもしろくねぇな」と感じている。

次は、マスコミほど強い発信力を持たない、比例代表で1人を送り込めるかどうかという小政党のような発信スタイルが見直される。与党のように世間に対する責任を負う必要はない。自分たちがぜいたくに暮らすのに必要なぎりぎりの金額だけ稼げるだけの客を囲い込めばよい。それが世間の1%だろうが0.5%だろうがかまわない。視聴者の総数を稼がなくてもよい、視聴者からむしる金銭の単価を釣り上げればよい。そういう目算を立てると、強い与党が存在しないことはむしろ、追い風になる。一番人気が不在なほうが弱小政党にとっては都合がよい。

そうやってうまく回っていく。

ちなみに政治とSNSの大きな違いとして、SNSのほうは毎日与党が入れ替わる。昨日は知らないアイドルグループの新曲が発表され、今日は知らない詐欺師が捕まり、明日は知らない炎上が知らないままに吹き上がって鎮火する。否が応でも第一党がしばらく持続する政治の世界とは、そこが違う。与党がない。だから長期的な政策も望めない。刹那的に毎日その場しのぎの繰り返しで構築された複雑系は、毎日解放が変わる脱出ゲームのようなものだ。

動物園でのんびり大型動物などを3時間ほど見ているうちに世の中の50%くらいが入れ替わる。映画作品の1本あたりの長さはトレンドがぎりぎり移り変わらない時間である89分くらいに設定される。

小さくなり、短くなり、揺れて、入れ替わる。ふるいにかけられた小麦粉のようだ。後に砂金が残ると信じている人もいる。


こういうのを見ているうちに、「おとなしく暮らしたい人々」はだんだん、政治とトレンドについて語ることをやめる。デフォルトが反論と日替わりで構成されていると攻撃性や射幸心が強すぎて胸やけしてしまうのだろう。みんなの価値観が細かくすれ違う中で、すこしでも多くの人々の興味にひっかかるような、でも、順位を争うほどでもないような話題。

食べ物。

猫。

加齢。

まあそのあたりか、本や音楽が入ってこないのが残念ではあるが、そんなものであろう。私はどれも選ばずにダジャレを選んだ。比例に1席も送り込めなくて、政治家になれない。

さげすまないサゲ

米粒写経の映画談話室というYouTubeが好きで毎月見ている。映画評論家の松崎健夫さんが、先日、番組の冒頭のフリートーク的な部分で話したエピソードが印象的で、ちかごろよくそのことを考えている。

それは、「こんなにうまいものがあるのかと感動した」という言葉からはじまる。映画を見て評論をする以外の印象がまったくない松崎さん、着るものは黒で統一しており(選ぶのが面倒だからだろう)、映画以外の理由で旅行に行くこともなさそうな松崎さんが、めずらしく飲食の話などするので、その時点でかなりフリが効いていて、そうかそうか、どんなうまいものを食ったのか、とみんなワクワクして先を待つ。すると彼がこの度はじめて食べたうまいものとは、

「うまい棒 めんたい味」

であった。そんなこったろうと思った。

「いいですかみなさん! ひとつのことに人生を捧げてしまうと! こうなります! 人生の98%くらいを映画に捧げてしまったばっかりに! この人はこんなことに!」

中年も半ばを過ぎて、うまい棒のめんたい味をはじめて食べて感動するというエピソード。それを笑いながらも我がこととして受け止める私の心。近年、ときには「かわいい」とすら称されるタイプの偏り。毒はないがしびれる。自虐のような自尊。なんだかいろんなことを考えてしまう。

他者のあらゆる経験にいっちょ噛みできる環境に暮らす今において、「えっ、それをまだ経験していないの?」という驚きが強まっているとも言えるし、逆に、体験が個別化しすぎていてお互いの記憶を共有しづらくなっている今において、共通言語としてしっかり機能している「うまい棒 めんたい味」がすごいとも言える。真逆のことを言っている。しかしこれらは階層が違う話だ。

TikTokで万バズした動画のネタが半年遅れくらいで紅白歌合戦に流れたときに大人たちが「これ流行ったの?」と子どもに聞くと、えっ、今さら? と冷たい反応をされる、みたいなやつとも、構造としてはそんなに離れていない。でも、「うまい棒 めんたい味を生まれてはじめて食べて感動した中年」という内容には、ある種の断絶みたいなものがあまり感じられない。思えば不思議なことだなと思う。根本には、YouTubeの収録スタジオ内に、松崎さんの映画愛に対するスタッフ全員のリスペクトが注ぎ込まれているという前提があって、だからこそ温泉の泡のように暖かくはじける笑いが場に満ちたのだとは思う。

つまりあそこにあったのは、近年、あまり見ることのなくなった、

「それを今まで知らなかったの? →(からの)→ サイコーじゃん」

という展開というか空気だった。私はそれをなんだかすごく尊いと思ってしみじみ2回ほど見てしまった。今わりと切実に、「おかしのまちおか」に行きたい。

人間が嫌いなので

飲酒量を減らしており、大塚製薬かどこかが作ったアプリである「減酒にっき」も毎日順調に稼働している。飲酒の有無と量(酒ごとに細かく設定できる)を記録すると、飲まない日には四つ葉のクローバーのスタンプが、少量飲むとほほえみ顔のスタンプが、大量に飲むと困り顔のスタンプが捺されてカレンダーが色鮮やかになっていく。この単純な仕組みがいろいろと私の精神を刺激する。私は人間が嫌いだ。画面の中に顔が増えていくことが我慢ならない。困り顔はもちろん訳知り顔のほほえみを浮かべた顔であっても腹が立つ。だから画面を四つ葉のクローバーで埋め尽くそうと必死になる。つまりは飲まなくなる。結果的に、かなりストイックな減酒に成功している。とはいえ、まだはじめて1か月。1年は続けてみたいと思うがどうなるだろうか。

酒を減らすとあからさまに腸の動きがよくなった。そして腹が減る。これまで間食をいっさいしないまま働いてきたが、最近は、職場のローソンや出先のセブンイレブンでカフェラテを買って飲んだり、ときおりタリーズなどでハニーミルクラテを飲んだりしている。トータルの糖質・脂質摂取量が増えていることが少し気になる。「タバコをやめると太る」と似たメカニズムがそこにあるのかもしれない。



メカニズムとは矢印で示せるものではないなあということを近頃しょっちゅう考える。一方向ではない。カスケードではない。曼荼羅のたとえをよく使うけれどあれを立体方向に拡充してさらに時間軸を前後に行きつ戻りつして見るものこそがメカニズムだと思う。ハンス・ロスリングのバブルチャートのプレゼンはいかにもメカニズムだったなあ。「えっ、あれはメカニズムじゃなくて単なる現象の記述でしょ」とか言う人間は何もわかっていない。だから人間が嫌いだ。

DNAは4.2進法くらいのプログラムである(DNAとRNAでチミンとウラシルが変わるからきれいな4進法ではないよね)というたとえ方も、昔はよく使ったけれど、今は不正確だと感じるようになった。プログラムは前から順番に読んでいくものだけれど、DNAは途中途中を同時多発的に読むものなので、運用の根幹の部分が異なっている。同時多発的に複数のアプリを稼働させている、と説明してもまだ足りない(アプリ同士が結果だけでなく過程の段階で相互に影響し合うというのはコンピュータのたとえを用いている限りうまく説明できない)。

プログラムは流れ・方向性がある。これは音声でのコミュニケーションに似ている。一方、DNAによる人体の運用はどちらかというと映像情報コミュニケーション的で、順番がまったく問われないわけではないけれど、画面内に本筋とはまったく別にうごめいているものがあって、かつ全因子が相互に関わって全体のニュアンスを言外に形作っていたりする。ト書きで書ききれない。ここまで書いてきてふと思ったが、実写映画よりもアニメ、それも制作会社がかなり気合いを入れて作ったアニメに似ている。実写と違ってアニメは、アニメーターが描こうと思ったものしか表示されない。偶然うつりこむ何かというのはない。えっだったら生命は実写映画なのでは、と言われるだろうが、逆で、生体内に存在するほとんどの物質は偶然そこにたまたまあるものという考え方はしづらく、神アニメーターが直観で描き入れた小物、みたいな風情のタンパク質はすべてDNA上でコードされている(ただし翻訳後修飾の部分には偶然が宿るかもしれない)。やはり、生命とはアニマであって、実写ではないのかもしれない、なんていう無理筋な逆説で下半身浴を極めて血管を開いてリラックスをする。ああ、でも、うーん、マイクロビオームのことを考える。共生生物は体内のアニメーターが一切描かずとも勝手に繁殖しているセル画のカビか? いやあそれでは説明しきれないな。やっぱりすべてがアニメーターに描かれた物体だけで構成されているというアニメの説明ではうまくはまらないかもしれない。あ、そうか、待てよ、原作小説付きのマンガのアニメ化みたいなものか。表現方法が変わっていくにつれて自動的に付加される、原作者がコントロールできないデザインのニュアンスみたいなものとも言えるか。主人公の服の色合いとか。声優の声質とか。声優の声を腸内細菌にたとえるなんてひどい人間だなと我ながら反省する。だから人間は嫌いだ。

そうだおそれないでみんなのマンメンミ

ドルルンドルルンとエンジンの音が鳴った。そういうのはアメリカでやれ。屋内駐車場でやるな。改造マフラーは破裂音を繰り返した。運転手の顔が見えた。角刈りだろうか。目がらんらんと光っていた。昔のカメラで撮ったときの赤目のような。頭が悪いだろうと思った。ひどい言い方をする。私の本性とはその程度のものだ。しかしそれくらい言ってやってもいいだろうとも思った。そういうのは砂漠でやれ。砂漠に響く改造車のマフラー音を思って私はすこし恍惚とした。見てみたいものだ。タイヤは空回りし運転手の口の中に乾燥しきった砂が一気に流れ込んでいく。気管支の八次分岐を越えて肺胞上皮の表面に砂が付着する。マクロファージが反応できずに直接II型上皮が障害されてフィブリンが析出し、硝子膜が形成されて頭の悪そうな運転手の呼吸は急激に促迫する。あえぐ声をかき消すマフラー音。頭の悪そうな音が砂漠を遠ざかっていき三日月型の砂丘に反響して真の環境音楽と化す風景を私はまざまざと思い浮かべた。


車に興味がない。洗車もばかばかしく感じる。靴を磨くほうが建設的だ。しかしあまりに汚れすぎた車をしかたなく洗い始める日はある。晴れた休日。金属をどう拭いてきれいにするかという一連の手続きのところに、じつはそこそこ興味がある。洗車の目的=車をきれいに保つことは心底ばかばかしいと思うのだけれど、洗車という作業自体はおもしろがっている。どういうシャンプーを何につけてどうやって磨いていくか、どれくらい洗ってどれくらい乾かしてワックスをどう選ぶか、といった作業の選択の過程は楽しい。目的に価値を感じないが手段には価値を感じる。逆を述べる機会のほうが、普通は多いのではないか。私だって、そうだ。目的のためなら途中の手段はどうであってもいい、そっちのほうが普通なはずだよな。たとえば……金とか。どういう手段で手に入れても、結果として大金が手に入ったらそのほうがうれしいだろう。うれしいはずだ。……そうだろうか。待てよ、と思う。ちょっと考え直す。

私は、おそらく、そうではない。金を手に入れるという目的よりも、金を手に入れる手段の段階で一番興奮している。この手段をこう調整することでよりたくさんの金が手に入る、というとき、「たくさんの金」に興味を持っているのではなく、「たくさんの金を手に入れるための研ぎ澄まされた手段」を自分が扱っていることがうれしい。結局これは、洗車に対するスタンスと同じだ。◯◯のために本を読む。◯◯のためにどこかに行く。考えてみれば、すべて同じだ。目的よりも手段のほうに気を取られて目的はだんだんどうでもよくなっている。なるほど。そういう心なのか。そんなものかもしれない。

何のために生まれて何をしてよろこぶ、わからないまま終わる。そんなのはいやだ、とアンパンマンの歌はうたう。「何のために生まれて」は別にわからないまま終わってもいい。しかし、「何をしてよろこぶ」については、たしかに、わからないまま終わるのは、いやかもしれない。件のバカの車はやけにピカピカと磨かれていた。私がインクリングだったらスプラローラーでパステルカラーに踏み潰したあとフロントガラスにキューバンボムをべっとりくっつけてやれるのに。