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優秀な病理医と話しているときにふと脳裏をかすめるのは、「私ではなくこの人があの症例やあの症例を診断していたら、2秒早く診断にたどり着いたのだろう」という引け目。

無数の2秒のずれが現場にもたらす影響は大きい。

私はあと2秒ずつ早く診断できる病理医になりたい。

そして、一連の思考はおそらく、私が無意識に目をそらしているもっと大きな恐怖から我が身を守るための防衛シークエンスである。

「もっと早く診断できたろうな」という悔やみは代替的なものだ。

私はより大きな引け目を抑圧している。それはおそらくこういうものである。



「この人ではなく私が診断したことで、これまでに何度まちがった診断が出たのだろうか」



所見の不足。理解の浅さ。示唆の弱さ。誤診。

本当は誤診があったのかもしれないという推測は体を硬くする。この恐怖と直面することを避けるために、私はあえて「診断の速さ」という別の尺度を前景化させているのではないかと思う。



念のために書いておくが、そもそも病理診断において、A病をB病と誤って診断するような誤診はめったに起こらない。私だけでなくどんな病理医であっても。

なぜなら、病理診断という仕事は、どでかい検査前確率に守られている「後ろに控える部門」であるからだ。病理診断はその9割くらいが「すでに臨床医が診断したものを確認する」という目的で行われる。したがって、「そもそも言われたとおりに動いていればたいてい正診できる」のである。それにもし、病理診断で病名を大幅にまちがえたとしても、ほとんどのケースで臨床医がその診断に対して違和感を持ち、病理医に見直しを依頼するから、結果的に「A病をB病と間違うタイプの病理学的誤診」によって、患者の診療がおおきくずれてしまうことはない。

しかし、誤診という言葉を、「小さな見逃し」のような意味にまで拡張するとどうか。

残念なことだが、それはおそらく全国の病理診断現場で今日も起こっている。

小さな異常細胞。軽微な形態学的変化。マニアックな所見。これらはときに見逃され、ときに書き忘れられ、あるときには「そういう異常がある」ということ自体を認識されていない。

もっとも、20年前の胃生検では自己免疫性胃炎を指摘できた人が国内外にほとんど存在できなかったわけで、病理診断というものは時を経てふりかえると、いつも多くのものを「見逃している」部門でもある。「これが異常だということを知らなかった」というのはある意味、その時点の科学の限界を複写したものであったりもする。

しかし、そういう言葉遊びではなしに。

私はときどき何かを見逃しているのではないかと思い起こすことは強烈に怖い。

提出された4個のリンパ節のどれかに潜んだ小葉癌の転移細胞1つを見逃しているのではないか。

骨髄のすみっこの血管ひとつに紛れ込んでいたリンパ腫細胞を見逃しているのではないか。

肉芽腫を、アポトーシスを、封入体を、菌叢を、目で見ていたのに脳で見ていなかったということはないか。

あの優秀な病理医であれば見逃さなかった細胞を、私が見たばっかりにチェックできていなかった瞬間が、これまでになかったと言えるだろうか。




顕微鏡をみる検査がいまだに医療行為の中に組み込まれているというのはなぜか。ビッグデータや機械学習を用いてそんな面倒な検査を省略できないものか。

残念ながらなかなかそうはならない。ミクロでしか気付けない差異が患者の今後に影響するシーンが、たくさん存在するからだ。

臨床医がいくら精度の高い診断をしていても、病理医が細胞1つの異常を見極めるか否かで診療の結果ががらりと変わる。そういうことは低確率で存在する。

低確率というのがポイントだ。めったにないということは経験する頻度が低いということである。何度も何度も遭遇していれば、誰だってそのおかしさに気づけるから見逃しも誤判定も減る。しかし、めったに遭遇できない軽微な異常に気づけるかどうかはひとえに病理医の能力と努力にかかっている。

「個人の能力と努力」に負わせるほど人の命は軽くない。だから本当はシステムで守りたい。誰かが見逃しても別の誰かがそれを拾い上げるような。病理がわからなくてもほかの検査でなんとかすくい上げられるような。

しかしこの話はどうどうめぐりだ。どれだけシステムを整えても、どれだけほかの検査が優秀になっても、ごくまれに、ごく一握りの、ごく特殊な病態においては、やっぱり、「ここぞというタイミングでたまたまそこにいる病理医が見つけてくれるかどうか」によって、その後の展開が左右される。




ちなみにほとんどの病理医は誤診の経験がない。なぜか。

病理医だけが気づけるくらいの微細な異常が見逃されるとき、「あ、あなた、見逃しましたよ」と指摘できる部門がほかにないからだ。誤診の経験がないのではない。正確には、「誤診を誤診だよと教えてもらえることがない」のである。

「病理医が見逃したこと」を指摘できる立場がまったくないかというと、そんなことはない。ひとつは「ほかの病理医」。もうひとつは「将来の結果」。

ほかの病理医が仕事をチェックして、「あっここ見逃しているよ」とやれば、誤診には気づける。しかしふたりとも見逃すような軽微な異常があったらどうか? その誤診には誰も気づけない。

病理医が何かを見逃した結果、患者の病態がどんどん悪くなって、おかしいぞと振り返ってみたら過去の検査の中に異常がまぎれていたとする。未来の結果からふりかえって過去の間違いに気づくというパターンはありえる。しかし、未来なんてものはいつも複雑だ。結果は複数の要因によっていかようにも変わりうる。「あそこであの病理診断がまちがっていたせいで」なんて、結論できることのほうが少ない。




80を越えてもなお診断の現場に立っているような高齢の病理医は、(私の観測範囲に限っての話かともおもうが)たいてい70代のうちに一度は帯状疱疹になっている。あれは痛い、痛いんだ、と口々にいう。しばらく診断を休み、また戻ってくる。戻ってこられるのがすごいとも思うが、復帰したての病理医のひとりに話を聞いたとき、「体力がなくなってくると、自分が誤診しそうな瞬間に気付けなくなるから、危なくて診断できない」と言っていたのが印象的だった。

自分よりはるかに先に行っている病理医たちも毎日誤診のことを思いながら診断をしている。日々、あれもこれも見逃しているのではないかという恐怖に追われながら診断をしている。自分のこのままそうでありつづけなければいけないのだなという、30年後の答え合わせを見せられているような気になる。

令和を生き抜きそうにない憩い

昔行ってた漫画喫茶がつぶれた、と言って悲しむ男に、それってコンビニがつぶれるのとおんなじくらいショックですよねーと返したら、「しかもつぶれた跡地にジムができたんですよ!」と怒り出したので、申し訳ないが笑ってしまった。べつに怒らなくてもいいやんけ。えっ、だって、マット席でごろ寝しながらキングダム読むのだけが楽しみだった男の行きつけが、サラダチキンブロッコリー野郎どものポジティブフィットネス空間に変わったんですよ、それって搾取じゃないですか? 搾取ではないと思う。

漫画喫茶とジム。真逆と言えば真逆のサービスだけど、どこか似ている。自分のための時間を自宅以外で過ごすために空間に課金するシステム。

漫画喫茶は今後きついだろう。ネットカフェという言い方もあるけれど、いまや、PCをたまにしか使わない人があえてPCを使う場としてネカフェに行くケースはだいぶ減ったはずだ。無料Wi-Fiを探し当ててスマホでなんとかできてしまう時代に、漫画喫茶に行く人の多くは、紙の漫画を読む空間に課金して自宅以外でごろごろしたいという欲望の持ち主。

ためしに検索すると、札幌圏内、20年前にくらべて郊外の漫画喫茶はほとんど絶滅状態だ。店舗の多くは札幌駅やすすきのなどに残っていて、これはおそらくホテル代わりということだろう。映画「天気の子」でも主人公は漫画喫茶でシャワーを浴びていた。





15年前くらいにはたまに漫画喫茶に通っていた。ゴリラーマンとかストッパー毒島とかBECKとかをよく読んだ。あだち充もカイジやアカギも鉄腕バーディも漫画喫茶だったと思う。ジャンプ以外のマンガはたいてい漫画喫茶で摂取していた。昨年だか一昨年だか、ゴールデンカムイの全話無料キャンペーンがスマホ向けに展開されていたとき、一昔前ならこのマンガも私はきっと漫画喫茶で読み通したんだろうなと思った。

漫画喫茶のどんぶり飯が好きだった。安くてうまいしなぜかコンビニよりも若干ジャンクみが少ないような気がした。ドリンクバーのマシンがちゃんと清掃されているのかうたがわしかったがコーンスープ的なものをよく飲んだ。今にして思うと、いつ行ってもぎりぎり汚くないくらいの空間というのは、逆に毎日きちんと手が入っている証拠で、平均的には信用できる。空間を意図的に放置したときの汚れ方はあんなものではないということを私はその後の人生でたまに学ぶことになった。

思えば感染症禍以降の私は漫画喫茶を訪れていない。行きつけだったサッポロファクトリー近くの自遊空間もつぶれてしまった。進撃の巨人を全巻読み返すにもキングダムを1巻から復習するにも藤田和日郎作品を全話ウルトラトレイルランニングするにも、すべてスマホで済ませてしまえる昨今、私が次に漫画喫茶に行くのはいつなのだろう思う。サンキュータツオさんが寄席の合間に漫画喫茶だかラブホだかで足を伸ばして寝たことがあるという話を聞いてから、たまに私は「マット席」のあの水分を過剰に跳ね返す感じのやわらかさを思い出すことがある。ゆるやかに窒息するような空間で感じるタイプの平穏、かつての私が確かに惑溺していた半個室の汚い心地よさをうっかり遠ざかった近頃の私は、ときおりスタバやコメダで「人並みにゆっくり」しようともがいては毎回失敗している。何をやっているのか。何を履き違えているのか。お前の帰るところはスタンド電球の下だ。

脳だけが旅をする

息子が一人旅の報告をLINEに載せていた。私も旅がしたくなった。

旅は不安の中に身を浸す行為だ。不安が解消した後の安寧によるカタルシスを目的とするのではなく、「不安の中にたゆたうことで自分の体の輪郭がかえってはっきりしてくる現象」を直接求める行為だ。いつか安心するために一時的に不安になりたい」のではなく、不安そのものを求める。それが旅だ。

しかし、今の私が旅をして得られる不安は、かつての私や今の息子が得ている不安とは異なる。

かつての不安は未知がもたらすものであった。

それに対して今の私が得るであろう不安は既知の苦痛との遭遇を予期することによるものだ。

両者はオーバーラップする部分もある。でも、似て非なるものだ。


私もかつて、たいした量ではないがいくつかの小さな旅をした。それはいわゆる「旅行」と呼べるようなものではなくて、たんなる「剣道部の遠征」だったり、「大学院の出張」だったりして、決して「エンタメ」ではなかったし、「サプライズ」でもなかった。それでもやはり旅だった。

なぜならばそれらはすべて未知の不安をまとっていたからだ。

私も旅をした。

今の私にはそういう旅はもうできない。失ったともいえるし飲み込んだともいえる。

かつて十分に旅をし、それらを心にしまい込んだ今の私は、段取りや手続きが主たる目的となった旅程を、既知に囲まれてただ黙々と歩む。

何日どこにいけばだいたいどういう気分になるかがわかる。

困りごとがあってもどう動けばどう解決できるかがわかる。

不安は減り、たくさんの安心の手段を手に入れた。

人はそれを旅慣れたという。

バカじゃないのか。旅に慣れたら旅はできない。



「世界は広いよ、知らないことがたくさんある」と言って、にやつく大人を信用しない。

そういう人間の語る「旅」は、語彙がおよそ630語くらいの単語で形成されている。小学生がならう英単語の数くらいだ。

知らないことがたくさんあるというわりに、毎回使う単語がいっしょ。

国語力の問題をどうこう言いたいわけではない。私だって別にそんなに言葉を使いこなしているとは思わない。

でも、結局のところ、彼らは旅に未知を求めていないのだ。だから既成の言葉でみずからの経験を言い表すことに疑問も恥ずかしさも持たない。

そんな人間のいう、「旅に出て知らない人と合うことで自分が広がるんですよ」みたいな言葉の空洞に涙を吸われて私はカラカラに乾いた。

「旅好き」を名乗る大人のほとんどは、既知の順列を入れ替えて「新しい世界」と言ってみせるペテン師だ。

「知らないことがたくさんあってそれを知りに行くのが楽しい」とはつまりスタンプラリーである。景品がもらえたらいいですねえとすなおに願う。

それが楽しいと思う人はそれが楽しいと思う人どうしでにやにやしていれば別にかまわない。しかし、「あなたも旅に出たらいいですよ」とは本当にどの口が言っているのかと不思議に思う。

私の旅をあなたは定義できない。



私は旅がしたくなった。不安の中に身を置くことを純粋に目的とした旅。誰かの既知を自分の未知に押印するような「手続き」から自由になれる旅。私は息子にあこがれ、かつての自分にあこがれる。既知の隙間に未知を探しにいく。風景の中にも会話の中にも美食の中にも自分の不安は落ちていない。ないものねだり。旅はむずかしい。旅は困難だ。本当の旅を再びできる日がくるだろうか。それは私が解決しない困難と不安の中に自分を置き続けるだけの胆力をもう一度取り戻すことを意味する。息子にあこがれ、かつての自分にあこがれる。今の私は未知にみずからをさらすことを極端に恐れている。旅はこわい。旅はくらい。私は旅がしたくなった。安心を差し出す人々から解き放たれるような旅。風景の中にも会話の中にも美食の中にも自分は落ちていない。不安の中に自分がいる。脳だけが旅をする。

ブログやめない理由

いよいよ次の本の原稿を書き始めた。ただ、「次に出る」本という意味ではない。私が「次にこれをやるぞ」と思っている本という意味である。たぶん原稿を書き終わるころには、別の本が2,3冊ほど出ているはずである。今のこれについてはゆっくり書く予定だ。どれくらいゆっくり書くかというと、1日に2000字くらいずつ、週に3~5日ほど書いて、月に20000字として、2ヶ月で3万字、半年で8万字、1年で15万字といったところだろう。私の平均的な仕事量で中央値をとってそれくらいの文字数で完成すると思う。計算が合わないのは書いている途中で前に戻って構成しなおしたりする展開を考慮している。

これまでは3週間で9万字書いて一冊の本にしてきた。今度のは、ペース配分も中に含まれる意図の量もかなり違う。すでに1年くらい、おおげさではなく本当に毎日次の本のことを考えて日々を暮らしてきた。正直に述べるとこのブログを書く際も必ず(100%)、次の本に書く可能性があるネタだろうかということを思い浮かべてから書いていた。だから今、瞬間的に、ブログをやめて本に集中するべきかと思った。しかし、ブログをやめて、かわりに毎日は本の原稿を書くというやり方がほんとうによいのか、それが私にとってよいことなのかが疑問である。これはこれ、あれはあれ、でよいのかもしれない。「あの話を書きたいけどブログに1800字くらい書いちゃったからもう書けないなあ」みたいなネタもあるからブログのせいでアイディアが枯渇していっているとは思う。しかし逆にいえば、手癖だけで1800字くらい書けてしまう内容を本にしてもしょうがない。そういう「小ネタ」や「大ネタだけどスピードでさっさとまとめてしまうネタ」はブログに放流していったほうがいい。



多くの人が指摘し続けていることだけれど、毎日何かを続けるというのは確かに力になる。惰性・慣性とは違う。世の道には摩擦があるので、等速で運動しようと思ったら加速度を加え続けなければいけない。力を込め続けなければ同じ速度で進み続けることはできない。黒板の中(理論的な環境)で等速直線運動といったらそれは静止していることと変わらないが、しかし、現実世界だと、等速直線運動をするためにはエネルギーを運動量に変え続ける必要がある。エンジンを常に回し続けるためには給油もしなければいけないしメンテもかけなければいけない。

ただ、じゃあ、毎日何かを続けていればそれが最高なのか、というところまで考えを進めたほうがいいだろう。毎日何かを続けていることが、端的に「甘え」になるという感覚がある。今、そういうことをちょっと考えている。

毎日何かを続けることは確かに大変だ。しかし「毎日何かを続けることに慣れた」時点でその運動はかつてほどエネルギーを使わなくてよくなってしまっている。たとえばこのブログだってそうだ。書くことに対する筋力がついたからたいした手間ではない。たいした手間ではないということはそこでさらなる筋力を付ける訓練にはなっていないということである。だったらブログを毎日2本ずつ書けばいいのか。そういうことでもないと思う。「こうやってこうすればこれくらいの時間でこうなる」というのがある程度読めた状態では、同じメソッドに沿ってプロダクトを2倍、3倍と作ったところで脳内におけるなにかの消費がそのまま2倍、3倍と増えていることにはならない。

そして私のような人間はすぐ、「俺も地味に10年これをやっているからさあ」とか、「この業界で20年暮らしているとわかるんだけど」みたいなしゃべりかたによっかかってしまう。ついさっきも、「すでに1年くらい、おおげさではなく本当に毎日次の本のことを考えて日々を暮らしてきた」みたいなことを平気で書いてしまっている。継続しておけば大丈夫なはずだという幻想にとらわれている。等速を維持するやり口がもたらす「漏出」があるのではないか。その漏れ出しは、毎日何かを続けることによる利得を相殺しているということはないか。



単純に続ければいいとは思わない。しかし、「もう十分筋力はついたから、この継続をやめにしてその分の労力をつぎ込もう」という発想もまたまずいのではないか。たとえば私は今、このブログを書き続けることにさほど労力をかけていないので、それをやめにしたところで大して「力が余る」わけではないので、ブログをやめても「継続がとだえた」というマイナスが引け目に転換するだけで、ほかにやりたいことに振り分けるパワーが特段増えるわけでもないだろう。すでに私の継続は、「続けていてよかった」の段階を超えて、「やめるにやめられないが続けていてもこれ以上うれしいことはない」というところにあるのかもしれないと思う。

それでもなお、「継続は力だ」と言いたがる人がたくさんいるというのはよくわかっている。卑下するほど悪い行動ではないというのもよくわかる。しかし、たかが続けているだけだ、という気持ちを完全に失ってしまうのはもったいない。ブログはブログだ。たいした手間ではない。それはこれからも続けていけばよい。やめても得はないし続けても損はない、くらいの気分でよい。そしてこれとは別の部分で何かを成し遂げていかないといけない。「ブログやってるからなんとかなるだろ」ほどつまらない話もない。何かの役に立つために何かを続けているなんてどうしてもおもしろいと思えない。もういい歳なのだ。ブログくらい平気で続けてよいしそれを人に誇ることでもない。黙って書き続ければいいのだ。

ヤクルト1000のせいでミルミルは売れなくなってるんじゃないか

デスクの一角にSNSのノリで購入したぬいぐるみなどを積んでいる空間があるのだが、書類やプレパラートを出し入れする棚とくらべて物を動かす頻度が少ないため、うっすらとほこりが積もっていく。たまに虫干しというか風に当てる必要がある。かつてドラえもんで本屋の店主が立ち読みをするのび太の横で「はたき」をパタパタやっているシーンをよく見た。あの「はたき」、なるほど、必要なものだったんだろうなというのが、今ならよくわかる。ただ、現代の本屋で客がいるときに「はたき」なんかかけたら、アレルギーを惹起してクレームの嵐となるだろう。でも私のデスクには「はたき」があってもいいかもしれない。クレームを入れる人間もいない。

「はたき」はなんというか、文中に埋没しやすいワードだと感じたので、今の一ブロックではすべてカギカッコで処理してみた。はたきは便利だ、みたいに地の文に潜り込ませるとスッとオーラを消す。明日の買い物リストにはたきをわすれずに入れておこう、みたいに目がすべって慌てて戻って読み返さないとうまく印象を残してくれない。はたきはにんじゃ。はたきはくろこ。必要のない平仮名構成に気が狂う。気管にほこりが入って咳が出る。はたきをかけるひつようがある。

はたきに漢字はないのかな? と思ってスペースキーを殴打するとすかさず「叩き」が出てくる。Google変換だけだろうか? いろいろ検索してみると、平仮名もしくはカタカナの運用が一般的なようだ。無理に漢字を探すと「はたき=たたき(叩き)」と、「はたき=ははき(羽掃き)」とが見つかる(後者は漢字というより語源)。そういえば、相撲の決まり手にも「はたきこみ」があるけれど、あれは叩いているというよりはスイープしているようにも見えるなあ。



病理診断をやっていて、あえてひらがなに開くワードというのはそんなにない。どちらかというと「あえて英語と併記する」という頻度のほうが多い。

「胃リンパ球浸潤癌 gastric carcinoma with lymphoid stroma (GCLS)」とか、「血管免疫芽球性T細胞リンパ腫 angioimmunoblastic T-cell lymphoma (AITL)」のように、日常的に英文の略称を用いることが多いが診断書には間違いがないように注目をきちんと集めておきたい診断名などでは、漢字と英語のフルスペルと略称を併記する。これは誰から教わったことでもなくて、ただ私がそうしたくてやっている。

診断文書なんだからべつに英語だけでいいんじゃ、と言われることもある。しかしたとえばcholangiolocellular carcinoma (CoCC/CLC)という名称が用いられていたころは、英語だけ書くとcholangiolo-とcholangio-の違いを見落とされそうだなと感じたので、「細胆管細胞癌 cholangiolocellular carcinoma」のように日本語を付記することにしていた。

強いていうならば「みる」だろうか。腺頸部に印環細胞癌がみられます。表層にフィブリンの析出がみられます。腫瘍性病変はみられません。こういったときになぜか私は見るでも診るでもなく「みる」とひらがなに開いてしまうクセがある。これに関してはさほど強い理屈があってやっているわけではないのだけれど、なんでだろうな、アクセント? 息継ぎ? タンギング? のどの奥でひびかせる感じ? わかんないんだけど耳と目がそうしたほうがいいんじゃないのと語りかけてくるのでつい「みる」のように開いてしまう。病理医は単に資格情報を見ているのではなくて医学情報として診ているし、複雑に診るだけじゃなくて虚心坦懐に見てもいるから、さまざまな意味を包含した「みる」を用いているのですよと、学生にしたりがおで説明することはもちろん可能だ。でもそれは本心ではない。なんか、クセで、ひらいているだけなのである。なんでかなあ。