ヒャダルコでもいい

いただいたおみやげは大福のようだ。賞味期限は明日となっている。だったら明日の朝飯にしよう。札幌の夜はすっと冷えるようになってきて、これなら、テーブルの上に一晩置いてもそこまで悪くはなるまい。昼に家にためこまれた熱を、夜に窓を開けて少し逃がす、しかし壁や天井に溜まった熱はなかなか逃げていかないらしく、風が涼しいな、ちょっと寒いくらいだなと思って窓を閉めると壁から戻って来る熱でまた熱くなる。贅沢は言っていられない、本州なんて未だにめちゃくちゃ全然暑い、それに比べたら札幌は天国である、今年、ここまで、ずっと本州並みに暑かったけれど、ようやく北の地らしくなってきたかな。


明日の出張で乗る飛行機のダイヤが急にがくんと乱れた、とメールが来た。整備のため遅れます。なるほど。整備ならしょうがないね。でも前日の時点で、ここまでがっつり遅れるって決めちゃうんだね、や、うん、でも、教えてくれてありがとう、教えてくれるとまじで助かる。もっとも、医療だったら「夜通しかけてなんとかする」という手段を取りがちだけどね、でも、そういう圧のある働き方は、しないほうがいいよ、飛行機なんてそれこそ、安全第一だもんね、遅れな! 遅れな! そして明日の私の仕事はもちろんパニックになるのである。でも飛行機のせいだからしかたない。ほらーこれは私のせいではないですからね。こうして書いておけばあとでなにか、得できるかもしれない。得はしない。


脳梁のところが裂けたんじゃないかと思う。ちょっと思考がうまくまとまらない。疲労の影響だろう。ただ、右と左とが、うまく連携をとれないからこそかえってお互いを気にする、みたいなことにもなっている気がする。ハードルがあったほうが燃える恋のようなものか。芸術脳と理屈脳、みたいな話はまったく信用していない。脳のどの領域がなにを担当するみたいな話もマジであんまり気にしていない。そこを欠損させたら目が見えなくなるから視野に関係のある領域だとわかった、みたいな話はかなり解像度が低いと思っている。昔の科学ならいざしらず、これだけ積み上がってきた知見をあちこち丁寧にたどると、脳とはそもそもそういう、場所と機能とが一対一で対応するような臓器ではないのだ。それはたとえばサッカーで、メッシがイエローカード2枚で退場したらそのポジションがポンと空きますか、いや、周りがちゃんと動いて穴を埋めようとするだろ、みたいな話にも似ている。このたとえの素晴らしいところは、「とはいえキーパーがいなくなったらマジでやばいよね」みたいに、時と場合に応じてダメージの深刻さが変わることをちゃんとイメージできることだ。あらゆるたとえ話にいえることだが、いくつかの場合分けを包含した、重層的なシステムごと、まるっとたとえているケースは超・かっこいい。とはいえなんでもかんでも雑な構造主義みたいな話に持っていくのもいまいちなんだけど。


理論とはメタ実践である、みたいなことを書いてある本を読んで、まあ、そうなのかもね、でもそういうことを書く人って、結局理論を実践と照らし合わせる作業をそんなにいっぱいはやっていないよね、と思う。メタ、とか、俯瞰、みたいな言葉は、コスパ、タイパ、とかといっしょで、なにかの当事者に直接冠して使うというよりも、なにかを表現したり揶揄したりするのが大好きな周りの観察者によって、やけに乱発されてしまっていて、言葉が本来もっていた両義的な意味が摩耗してしまっているように思う。解像度、みたいな言葉にも言えることだ。便利だとそればっかり使って飽きちゃうんだよな。ドラクエでいうとベギラマみたいなもんだよ。たまにバギマとかに変えたくなってしまう。とはいえヒャダインは別の意味を持っちゃったからな。言葉というのは、ヘビのようにぬるぬるすり抜けて、ひとつのところにあまりとどまっていない、なんというか、多動な道具だな。私と気が合う。

画鋲の柄の暴力性について

新しいトランクを買ったのでむやみに出張に行きたくなっています。うそです。むやみに出張ばかりしているから新しいトランクが必要だったんだ。そういえばトランクって言うよりスーツケースって言ったほうが一般的なのかな? でも私は、なんとなくだけど、中年男性がスーツに身を固めて引きずって移動するのはトランクであってほしい。トランクという言葉の響きが好ましい。ジャケットは少し薄めの茶色がよくて、頭にはハットが乗っているとなおいい。このイメージは、なんなんだろうな。ドリトル先生でもないし。あしながおじさんでもないし、菊次郎の夏でもないし。なんとなく、そういう印象、私の中に居場所を占めるなんらかの情景、これは私の幼少期から夢や現実の妄想の中で、大根おろしをおろすように繰り返し、心の表面から内奥に向かって擦って擦って練り込まれたもの、刻印というには丸いし、彫琢というにもやわらかい、なんなんだろう、「青写真」という言葉がここでふっと浮かんでくる。それは小学生の頃、父親が買ってくれた『大図典 VIEW』の、五十音にのっとった項目の最初のほうにあったあのページ。今はもう青写真なんていう概念自体がよくわからないものになっていて、言葉としてもほぼ使われることもないのだけれど、たしか私の小学生のころには、子ども向け雑誌のふろくに「青写真セット」みたいなものがたしかにあって、シアノな色彩が脳裏にぼんやりと浮かんだままこちらを向いている。私の中の「トランク」という言葉は、わかりやすくセピアなイメージでもあるけれど、その心の中への投影のされ具合はどちらかというと、青写真のそれに近いのだなと思った。40年以上も前の、弱い日差しによって薄くもはっきりと感光された、私の中の、印象の話。こだわりとも違う、風習とも違う、好き嫌いとも違う、エネルギーがふんわりと、プラトーの中のカルデラにはまり込んで動かなくなっているような、そこは安住とまでは言わないのだけれど、腰掛けたまま、昼下がりの熱にうかされて立ち上がれなくなっているときの、現の縁辺で魂が散逸していく中でそれでも私が私として貼られているために必要な画鋲のようなものの。画鋲。気になるのは、針ではなく、柄。柄の、妙な尖り、押し込んだ親指を三日月の形に圧迫して痕を残す、壁からの圧のすべてを針が引き受けるのではなしに、私の親指にもある程度の責任と後悔をなすりつけてくる、画鋲の柄の矜持。工芸用鋸の刃の湾曲した返しの煌めき。担任の親指の爪を剥いだ断裁機のゆがんだストッパーの尖り。そこに、存在価値があるわけでもないのに、使用者の心になにかを勝手に残してゆくものたち、と、違って、私の買ったトランクには必要な機能しかついていない。それはとてもつまらないことだなと思って私はこれからトランクのフロントポッケに差し込むためのやや持ち手の尖った日傘を買いに行く。こうもり傘だとなお良いのだろう。でも私はそうなるべきではないのだ。私は常用の色彩の中で世界に埋もれるべきであって、あの青写真の中の中年男性のような、印象だけを残して去っていく空想の人間にいつまでもあこがれている場合ではない。

いちいち感じるな

「それしかできないだけ」のことを、「私の強みです」と胸を張っていくことは、自己肯定感的にはよいのかもしれないが、良心がいたむ。なんの話かというと私が学会や研究会でしゃべりすぎだということだ。病理診断に関するコメントを求められるとブワッと言葉を詰め込んでしまう。そんなにいっぱいしゃべらなくてもいいのに、しゃべってしゃべってセッションの時間がおしてしまう。これはもうある種の病気みたいだ。適切な治療がなければ、勝手に治るようなものでもないし、放置しておくとだんだん体力を消耗し、身体の減価償却、摩耗、消尽。この病の治療法とは、自分を客観視して「ほどほどにする」、この一点しかない。そしてなかなかこれをやれない。困ったものだ。おまけに私は開き直る。私はときに、「時間ぎりぎりまで病理の話をしてしまってすみません、しかし、私はここに揃った医療人のみなみなさまに、無数に言葉を投げつけて、どれがどなたに刺さるかまではわかりませんが、おそらくどれかはどなたかには刺さるだろうという思いでおります。つまりこれは学問のひとつのかたち、『ものづくし』ならぬ『ことばづくし』によって疾病・病態をつまびらかにせんとする戦略なのでして、誠に申し訳ございませんがご列席のみなみなさまにおかれましては……」みたいなことを平気で言う。これがつまり、「それしかできないだけ」のことにすぎないのに、「私の強みです/方針です/計算の結果です」みたいな顔をしてシレッとしているということだ。始末に悪い。

私はいつも反省し諧謔している。そのくせぜんぜん改善まではたどり着かないのだから、口ばっかりと言われる。その口ばっかりすらも戦略なのだと公言している。どうしようもない人間だなと感じる。それが病理学ニッチにすっぽりフィットするものだという確信までしている。悪人だなとすら感じる。

自らの悪・性を評価して分類し、名前を付けて共有し、視線を誘導して、複数人の関わる場所で羅針盤となる。


またSNSで芸能人が炎上した。嘘をライフハックと呼ぶ人たち。推し活という名刺を乱発して恍惚とする商売人。SNSの功罪の、罪の部分をとうとうと語りながら、公認バッジから小遣いをせしめ続ける、まるで野生動物に餌付けする人間のような未必の故意。自らの良・性を評価しようと思っても私はそれが何によって定義されるのか見当がつかない。生理学よりも病理学のほうが簡単なのかなと思う。悪ければ目立ち、悪ければ思考のフックになり、悪ければ良いものが見えてくる。それを自分の「強み」だなどと言い切ることに、猛烈な羞恥心があり、しかし、それなのに、隠そうともしない、私は露出狂なのかなとも感じる。

他人が妖怪すべきことではない

声を上げてびっくりだッ、これまでこの免疫染色は、何回も何回も染めてきたけれど、こういうシチュエーションでは一度も陽性にならなかった、幾度もの「もしや!」が、「あやっぱり違うんだ……」、シオシオと消えていった、しかしだッ! ついに染まったぞ! わああ! び、び、びっくりだ! まあ染まると思って染めてるんだけど本当にぜんぜん染まらなかった、けれど今回とうとう、はじめて、染まったッ! わああああ!

ちなみに、免疫組織化学は正確には染色(色素を使って染めるもの)ではなく、抗原抗体反応を利用してから二次抗体を発色させているものなので、「染まったッ!」と書くたびにチクリと胸が痛むんだ。とはいえ「光ったッ!」というのも違う。「そこにあったッ!」もへんだし。「見出したッ!」「とらえたッ!」「よくわかんないけど、なんかわかったッ!」だめだ。ニュアンスが違う。困ったものだ。



朝から頭が重くてそのくせ仕事は何種類も同時にやってきていて、こうやって振り返っている間にも次から次へと新しいメール、診断のチェック、研究の相談、人事の調整、事務作業などがふりかかってくる。これらをマルチタスクとしてこなすのではなく、断片化させて組み替えた直線上の配列として、スイッチングが高速で発生するシングルタスクとして走らせる。これは例えるならばあれだ、天津飯が四妖拳を使ったときに悟空も「ならオラは8本だ!」ってやって、クリリンがびっくりして亀仙人が「ほっほっほ あれはそう見せておるだけじゃ」って言ったやつみたいなもんだ。例えと言いながらワンエピソードごっそり持ってくるのやめてください。例えるならせめてワンフレーズにしてください。

ともあれマルチに活躍するなんてことは本当は人間はむりなのだ。せいぜい、右手と左手でベースラインとメロディとを弾き分けるくらいまでで、それだって左右でぜんぜん違うリズムの曲を奏で続けていたら演奏者はともかく聴衆はぐったりしてしまうだろう。「あまくち」のエレクトーンだと足も使うよね。そういう話をしたいわけじゃない。たくさんの仕事を同時にこなしている人を身近に眺めていると、ひとつひとつの案件に対する集中力が異様に深くて、どす黒くまわりの色が落ち込んでいくような感じでぐんぐん案件にのめりこんでいくようで、深淵に取り込まれそうでハラハラしてしまう。かつ、その深い淵から一瞬でガッと浮上してきて、ぜんぜん違うところにある全く別の沼に次の瞬間には急速沈降しているのだ。それを何度も何度も繰り返すようすを、ぼうっと、なんとなく興味もない感じで薄めで見るといかにも「同時にいくつもの仕事をこなしているように見える」というだけなのである。私もできればそういうことをやりたいなと思ってやっていくのだけれど、高速でタスクを切り替えていくことはなかなか難しく、結果的には「さっとこなすはずだった一つ目の案件に妙なひっかかりを感じて、そのことを頭の片隅に浮かべながらほかの仕事に取り組み、二番目の仕事でも懸念事項をひっかけて、三番目の仕事でも違和感を覚えて……」というように、次々と新しい着物をひっかけた十二単の霧姫(影の伝説)みたいなことになっていく。


ブログを書きながらこのあとの移動のことを考えている。メールにさっと返事をしたけれどあとでこれはもう一度考えなければいけないんだよなと思ってスターを付ける。昨日買ったジャンプをまだ読んでいないので出張用カバンのPCのとなりにしのばせる。新しいトランクを買いたい、なにをたくさん背負っていても、頭の中がごちゃまぜになっていても、保安検査口で中のPCだけさっと取り出せるようなフロントポッケのついたやつがいい。昔は荷物というのは小さければ小さいほどよかったけれど、今は、出張先の空港でぱっと買ったおみやげをしのばせるスペースがない小さなカバンを少し憎むようにもなっている。ところで私のPCは、「四妖拳」を入力するために「妖怪」という言葉を出そうと思うと、

(一度目) ようかい → 容喙
(二度目) ようかい → 溶解
(三度目) ようかい → 妖怪

の順番で変換候補が出てくるのでちょっと変なやつだなと感じる。溶解が上なのはわかるが容喙が一番上なのはおかしいだろ。なに気取ってんだ。



  1. 《名・ス自》
    横から差し出ぐちをすること。
     「他人が―すべきことではない」

はるかなる有給休暇の過去にある私の残像がうすれて消えて、今の私は廉価版の機体に乗り換えたような気分でふわふわゴツゴツと革靴を鳴らしている。仕事用のiPhoneをひさびさに起動すると無限の着信履歴がアットランダムにポケットの中で震えた。日が変わってからずっとメールに返事している。長く不在にしたお詫びの文章、メール冒頭の定型文を、ひとりひとり違うものにするのは、ひそかなこだわりである。コピペしても先方にはばれない、しかし、これらのお詫びはいずれも私の物語の一行なのだから、できればそれぞれ新たに紡いでおきたい。昔の漫画家が演出上の理由でコマをコピーして貼ってを繰り返したあとに枠外で「編集長、このページの原稿料いらないです、ほんとに」みたいなことを言うありふれたネタを、私の精神を和綴じした本の中で再現する気はないのである。


魚釣りにも行けたらよかったのに、と突然思う。キャンプだってしてもよかった。温泉だってよかった。しかし、そのいずれもなさないまま私の休みは終わった。満足している。体力欄は黄色くなった。しかし魔力は全回復した。


息子はよく成長した。もう安心だなという気分が強い。人間というものは常に自分以外のさまざまなものに目配りをするのに忙しく、たとえ独身であろうと、天涯孤独であろうと、自分の都合だけで生きていくことは極めてむずかしいし、まして人の中で暮せば、人を相手に仕事をしたり人を相手に生活をしたりしているならば、私のためだけになにかをするなどということはありえないのだけれど、それを悲しいとかつらいとか、もったいないとか損だとか、思わずにここまで暮らしてこられたのは私の場合、ひとえに世界のどこかに息子がいたからである。その息子が「あとはお前の物語だからな」とばかりにうまいこと育ってくれた今、さあ、私はもうなににも言い訳できなくなって、自分のために時間を使うことができる、そのほうが大変だよなァという、微笑みのようなものに浸りながら私は私の時間に目を向ける。


書類を書く、書類を書く、手で書く、のを見ている。私の瞬間的な主治医が私の健康診断の結果を手で書いていくのを眺めている。肝機能がちょっと悪い。2月に異常を指摘されてから酒を控えてγ-GTPはぐっとよくなったのだが、ASTとALTが下げ止まらない。どこかで一度、しっかり内科にかかったほうがいいのかもしれない。しばらく付き合っていくものだろうなと思う。私の瞬間的な主治医は指定の様式のいちばん最後に、「軽度の異常値を認めるが、就労には問題がない。」と書いた。これを持って私は次の職場に向かう。ただしこれだけではない。ムンプスの抗体価が下がっていたのでワクチンの追加接種をする必要がある。麻疹の抗体価も中等度まで下がっていたからこちらも1回は追加で打っておいたほうがいいだろう。風疹、VZVの抗体価は大丈夫だった。HBs抗体もしっかり高値であった。さまざまな数のワクチンと、罹患済みのかつての感染症の名残によって、私の体の中にはたくさんの抗体ができており、それらはまた年月とともに少しずつ消尽していて、次の職場に勤める機会に私はこれらをちゃんと補充しておくように命ぜられる。書類を書く、書類を書く、ペンだこというのもまた抗体のようなものだ。擦れる場所にはそれだけの備えが生まれる。


休み明け、1日だけ勤務して、また明日から連続出張の日々。私の居場所はもうここにはない。しかし私の居場所は最初から人の間である。こんなにいらないキーホルダーばかりUFOキャッチャーで取ってなにが楽しいのか、レイトショーの翌日の寝ぼけたまなこをこすりながら交互に笑う。本当に必要なものなど何もないが、要らないものと要らないものの間に浮かび上がってくる場所の温度を心地いいと感じ、笑い、休み、働く。