これは使えるはずだ! と思って買った皮膚病理の教科書が、いまいち私と噛み合わない。それなりに高価な教科書なのだが残念だ。説明のレベルが自分の理解と微妙にずれる。使いづらい。「そういう簡単なことを聞きたいわけじゃない!」と、「そんなこといきなり書かれても前提知識がないからわからない!」が、交互に散りばめられている感じだ。全体としてよくまとまっている本だとは思うのだけれど(つまりは編集者はきちんとやったのだろう)、日常の使用にあまり堪えない。実用的ではない。
ひとつひとつの文章とか写真とか項目の、「守備範囲」が狭いというか、あるひとつの節を読むにあたって必要とされる前提知識・問題意識が、かなり限られた範囲にしぼられてしまっている。著者が思い浮かべたシチュエーションでしか通用しないような記述。このくだりを読む人にはさまざまなバリエーションがありうるということを、おそらく著者(陣)があまり気にしていないのだろう。著者なんてものはけっきょくのところ、書けることしか書けないのだけれど、あまりにも手前勝手で読者のほうを向いていない文章というのは、これほどにも読みづらい。誰か数人でもいいから具体的に読み手を思い浮かべながら書いてくれていれば、こんな教科書にはならなかったはずだ。まったく使えないわけではないのでこれからも参照はするが、いまいちな買い物であった。
とはいうが、あまりに読者のほうばかり向いた文章というのも、それはそれで辟易するものである。内容を研ぎ澄ませることなく、「いいね」を少しでも多くもらえるように構文ばかりを磨き抜いた文章は、映えるばかりで体験としての重さが足りない。なににつけても言えることだが、極端なのはよくない。まあ医学書を書くような人間に中庸を求めるというのも無いものねだりなのだろうが、真ん中をずしんずしん歩くような本を買いたい。
書きたい。私は最近、おぼろげに、理想の医学書のことを考えている。何かを求めて読む人に、求めた以上の知恵をもたらすような本。かたちや数をあらわすだけでなく、読むうちに脳内に新たな道理が生まれてくるような本。沈思黙考のきっかけとなるような本。辺縁と中心を入れ替えるような本。他人の人生を追体験することで自分の人生の厚みを増すような本。
ひとつの出逢いによって聴衆がびっくりしてその後の人生がまるっと変わってしまうような強烈な講演というものにかつてあこがれ、だいぶ訓練を繰り返してきた。でも、私が思い描いているものを達成することが万が一できるとしたらそれは(うまくはなったけれどまだまだ先は長そうな)講演ではなく、あるいは本なのではないか、ということを最近たまに考えている。
声で伝える講演と、文章で伝える教科書との違いは、文章が持っている同時性というか、抱き合わせ感覚というか、直前に読んだところにちょっと戻ることができるアレンジ性というか、リズムを読み手の側にかなりまかせてしまう委任性というか、そのあたりにあるように思う。微妙に異なるものを同時に脳に飛び込ませることができる点を、体験の代替手段として使わない手はないし、非線形的に手をつなぎ合う複雑系をあらわす手段として換喩や提喩はほどよく役に立つ。一方、映像や動画というのは、どうしても物理法則の範囲でしか成り立たないところがある。表現の非現実性が理解のノイズになってしまうところもある。落語の頭山みたいな状況を映像化するととたんに陳腐になってしまうようなものだ。じつは映像というのは文章よりも不便だなと感じることがある。
文章はときに映像化するよりも読み手の脳内に大きくて不思議な情報をあたえることができる。それはたぶん、病理のマクロやミクロを語るうえでも言えることなのではないか。たとえば、解剖の様子を高解像度のカメラでどれだけ語ったとしてもそれは語りきれるものではないのではないか。「そういうの」を誰かに伝えるとしたら、文章一択なのではないかと、最近しょっちゅう考えている。