解釈違い

いにしえのファミリーコンピュータマガジン(ファミマガ)で連載されていた、神崎将臣のストリートファイターIIマンガはリュウが主人公だった。

神崎将臣は絵がうまい。迫力がある。けっこう楽しみに読んでいた。

ただ、解釈違いがふたつだけあった。

ひとつは、昇龍拳より波動拳のほうがすごそうに描かれていたことだ。



世の平均的なゲーム少年であった私にとって波動拳というのはあくまでダルシムやブランカを飛ばせるための牽制技にすぎなかった。昇龍拳こそが必殺技だ。昇龍拳こそがフィニッシュブローとしてふさわしいと信じていた。(竜巻旋風脚はギミックであり使い方のよくわからないトリック技であった。)

だから神崎版で昇龍拳が比較的中盤であっさりと放たれ、終盤付近で満を持して波動拳が大ゴマで放たれたとき、私は少しだけ不満だった。

なんで波動拳なんだよ、と。


しかし今にして思えば、神崎将臣の判断のほうがむしろ納得できる。

昇龍拳なんてものは格闘家でなくても普通に真似できる技だ。子どもが真似すると体幹がしょぼいから墜落した鯉のぼりみたいな見た目になる残念な技だ。所詮は単なるジャンピングアッパーであり「魅せる」のが難しいから炎でもまとわせないと形にならない。

その点、波動拳は違う。

格闘の先にある強さを正しく体現した真の必殺技。かめはめ波の例を出すまでもなく、マンガに必要な強さとファンタジー性を兼ね備えたフィクションの王道なのである。


今の私が神崎版を読めば、昇龍拳が先、波動拳が奥の手である構成に文句はない。

でも、それでもあえて言うけれど、私にとって、さらにはおそらく当時の私たちにとって、リュウの必殺技といえば昇龍拳だった。

それは単なる解釈の違い。そして、年月以上に私は少年時代から隔たったところにいるのだなという寂しい諦観の引き金であった。


ヨッシーがウィッキーと鳴いてはだめだ。

ヤエちゃんがエロいのは許せない。

プルツーがずっと全裸なのはなぜなのか。

私はあの頃、さまざまなマンガに、そうじゃないんじゃないかという違和感を抱え続けていた。

今ならわかる。今なら理解できる。

そして今の自分はつまらなくなったものだなとしみじみ感じる。



神崎版にはもうひとつ解釈違いがあった。

それは春麗の目が大きく美しく描かれていたことだ。

私は、あの頃、「この春麗はジト目じゃないなあ」、と、それがけっこう不満だった。これについては今の私も、時を越えて、少年時代の私とがっちり握手をする準備がある。ジト目じゃない春麗なんて春麗じゃないのだ。