私たちは、絵筆やペンで描いて/書いて何かを表す能力を日頃から存分に使っているために、「世の中は輪郭(アーキテクチャ)の集まりだ」という錯覚をする。すばらしきマンガ文化もその傾向に拍車をかける。顔にも服にもたくさんの線があって、その線の走行具合を見極めることで私たちの視角が作動していると考えている。私たちは、丸いとか角張っているとかギザギザしているとか膨れているといった、アーキテクチャを扱う言葉をたくさん有している。
でもほんとうは、アーキテクチャによる認識はサブだ。メインはきっと「テクスチャ」である。キメの細かさやムラ、模様、ごつごつ・ざらざら、色調、光沢……。
たとえば私たちの多くは「綾瀬はるか」というとぱっとイメージが思いうかぶけれど、綾瀬はるかの似顔絵を描きなさいと言われると、思い浮かぶわりにはぜんぜん描けない。似顔絵を上手に描ける人は、人の顔をアーキテクチャの組み合わせとして頭の中でとらえることができ、かつ、認識のために最低限必要な線を選び取るのがうまい人であるが、それ以外の大多数の人々は、私も含めてアーキテクチャをあまり上手にとらえていない。アーキテクチャの詳細な解析を常用していない。
話は変わるが、物が古くなるときに「古ぼける」という言い方をすることがある。古ぼけたピアノ、古ぼけた花瓶、古ぼけた家……。この「古ぼける」というのはどういうつくりの言葉だろうか。古くなるとぼける。ぼんやりとする。輪郭が? そうか? ピアノにしろ古民家にしろ、古くなると輪郭の部分には傷が増えて、むしろ線が増える。ぼけるとしたらそれは内部だ。人の手が入っていたものにカビや雑草が生え、入り混じりが生じ、色調がくすみ、キメ細やかだったものが粗雑になっていく。
古ぼけるという表現は、アーキテクチャがぼやけてくるというより、テクスチャがぼんやりとなっていく様子とフィットする。
私が昔から「病理学の講義でスケッチをさせるのはあまりいい教育ではない」と思っているのもこの点と関係がある。細胞を見てスケッチするというのは、細胞をアーキテクチャ的に解析する行為だ。これをやり続けると医学生は(早く終わらないかなと不満たらたらでやっていたとしても)、細胞の核が大きい・小さいとか、核膜の形状がゴツゴツしている・スムースであるとか、細胞の配列が索状・シート状であるといったふうに、自然と「アーキテクチャの言語化」によって病理診断をとらえはじめる。しかし、現場で診断をする病理医が見ているのはアーキテクチャだけではない。テクスチャも見ている。クロマチンの粗雑さ、細胞質の厚み・透過性の強さ、単位面積あたりの細胞配列の不同性・不均質性など。形態診断においてはアーキテクチャとテクスチャをそれぞれ別様の目線で解析したほうが、診断のキレ味が増すし、なにより、生命科学現象として、分子・生物学的に、細胞の挙動に思いを馳せるときの想像力の射程が段違いになる。ところがスケッチはアーキテクチャ偏重型の視線を強要するのであまり好きになれない。色鉛筆を使わせることで「テクスチャ」に気を向けさせていると言いたい病理学教授もいるだろう。でも学生は「赤紫ばっかり減っていくよォ」くらいのことしか考えていない。
「古ぼける」のは物質ばかりではない。文章も古ぼける。一時期わりとバズったブログ記事を数年後に読むと、すっかり古びてしまっていて読むに耐えないということがままある。では、文章の中で古くなってぼけていくものとは何なのか。
やはり「文章のテクスチャ」なのかな、という気がする。
なんとなくだが、文章において、描写力の鋭さや正確さがアーキテクチャに相当するのではないか。これらが時間が経つごとに雑に感じられるということはある。新たな事実が発覚したことで、古い解析が意味をなさなくなるということもある。形状は変化し細かな傷が増えていく。
では文章のテクスチャとは何に当たるか。文章のキメの細かさとは。
話を物質に戻すと、テクスチャを見るにあたって二つの方法がある。一つは触ってみること。もう一つは光をあてて凹凸をはっきりさせること。
文章にあたってもこれと同じことを考えてみる。すると文章のテクスチャの正体がわかる。
まず、「触ってみる」というのは文章でいうと「自分ごとにする」ということであろう。触れられる文章、つまり自分と接点が多い文章だとニュアンスが伝わりやすい。手も触れられないくらい遠くにある内容を読んでもピンとこない。
では、文章に「光を当てる」とは。スポットライトを当てる、つまり、着目を集めるということか。多くの人に読んでもらっている文章は、それだけ、たくさんの反響を産み、あらたな感想を手にして、付随する意味を増やす。それはテクスチャを強調する行為になるだろう。
つまり文章のテクスチャとは読み手との距離や読み手の数によって変動する。より正確にいうと、内在する文章の性質があきらかになるために読み手側のファクターが影響するということだ。
文章が古びるというのを、文章のテクスチャがとらえづらくなることだと考えると、それは「文章と、読み手の体験との、接続の強さが弱くなること」と言い換えられる。読み手の体験に解釈をゆだねなければいけない文章ほど、時間とともに急速に古ぼけていくであろう。普遍的な話題、すなわち、ずっとスポットライトが当たり続けているような話題を選べば、それは古びない。でもそれだけではない。ずっとコスられ続けていても、ずっと寄り添われていないような話題を選べば、その表面構造はどんどん劣化して、くすんでいくだろう。
今日のブログは書き溜めのために、公開よりも二週間くらい前に書いている。ときおり、自分の書いた記事を、一~二週間開けて読むと、もうなんだか古ぼけてしまっている。今の私にしか刺さっていない内容を書くことで、二週間で古ぼける。手触りの失われた状態で公開することになる。