その日私は出張でデスクにおらず、ほとんどスマホにも触っていなかった。帰宅しシャワーを浴び飯を食って呆然としていたタイミングで、mixi2のリリースを知った。とはいえ私はそこまで熱量高くその記事を読んだわけではなかった。これまで、新しいSNSならなんでも手を出してきたというわけではない。clubhouseのような招待制SNSに対してはいい思い出がないし警戒感しかなかった。だからmixi2も、ニュースを見た最初はやらなくてもいいかなと思った。しかし、タイムラインで、ピエール中野氏と葬送のフリーレン公式という「SNSの真髄をわかってそうな2大アカウント」がmixi2をスタートさせて招待リンクを広くフォロワーに公開しているところが目に入る。これに虚を突かれた。そうか、招待制とはいうが、事実上、リンクさえ見つかれば誰でも参加できるものなのか。であれば試しにはじめてみよう。勝算があったわけではなかった。軽く、お試しに、くらいの気持ちであった。
とはいえ、まあ、もう、今の私は、その、うーん、そうだなあ。
SNSの運用がもう、ずたぼろなんだよなあ。
Blueskyはブログの更新告知にしか使っていない。Threadsも萩野昇先生の思考の一端に触れられるという大きな目的以外でどう活用していいのかわからない。Xに至ってはひどいものだ。ダジャレをつぶやく場所としているけれど、正直昔ほどの熱意も根性も湧いてこない。Instagramのフォロワーは9割が20代前半の女性(※教え子)で、知人からは「やらしいインスタ」と呼ばれる体たらく。Facebookはフェイスブッカケと投稿してからずっとシャドウバンされている可能性が否定できない。
現状、ソーシャルネットワークの露頭に迷っている。青緑のアイコンのオワコン。そんな私が今更あらたにmixi2をはじめたところで、2,3日で飽きて開店休業状態になることは不可避と思われた。
それがまさかの大ハマリだ。自分でも驚いた。
※念のためこのブログが公開される日にもういちど確認するつもりではある。その上でこの記事が読まれているということは、私はいまだにmixi2のトリコだということだ。釘パンチのほうじゃない。
SNSって楽しいんだなと思う。今の飾らない感想である。より深いところの気持ちをすくいとって話すと、「SNSを楽しむ心がまだこんなに残っていたはずなのにこれまでずっと楽しめないでいたのはなぜなんだろう」ということが気になるし悲しい気持ちにもなる。くだらないことをいい、多彩なリアクションに笑い、放置するでもなく、ちょっとかまうけど、でもあまり気にしすぎないようにする、表層だけの付き合いなのだが、風がきちんと通る感じの付き合い。リアルほど拘束の強い関係をむすぶわけでもなく、顔と名前の一致しない人が、ときおり予想外のことを言ったり、自分の普段暮らしていない場所の風景や音や温度を届けたりしてくれる。そういうのが「100%手に入る」のではなく、「5%くらいの頻度で手に入る」というのがよい。「小耳に挟む」ならぬ「小まぶたにはさむ」感じがよい。リプライ代わりにスタンプが使われているのがよい。興味のある話題をコミュニティを用いて積極的に取りに行くことができてよい。「本のおすすめ」を取得できるのがよい。成熟が進めば、スポーツ、映画、実況スレ的コミュニティなども充実してくるだろう。自分でリストを作る楽しみこそないが、同好の士が集まった場所をそぞろあるくような「即売会さんぽ」のような使い方ができると一番よい。mixi2、すばらしいじゃないか。今の私はもっぱらmixi2にいる。
「ヤンデル先生」でエゴサ。「ヤンデル先生って本物?」というポストが目に入る。さっそく「NO」のスタンプをつけてリポストしてタイムラインに流す。すかさずどこかの誰かが「YES」のスタンプをつけて問題を昏迷に陥れる。たのしい。
今の一連の話を読んで「それは誰が誰のためにどうしてそんなことをしてるんですか?」と発狂するのが、世間の一般的な人々のリアクションだ。そしてそういう一般に私は興味がない。「わからないですか? であれば、そのままご自身の道を大切に。よいおさんぽを。ささようなら。でもまた5%くらいの確率で会いましょう」
まだ自分が情報の中でやっていけることを再確認。うん。あたりまえだ。生命というものはすべて、環世界からにじみ出た情報のウズの中でやっていけるだけの機能をもっている。でも、あたりまえではない。私はもう、SNSがつらすぎて、情報を遮断しないとだめなのかと半ばあきらめかけていた。違った。違ったのだ。だめなのはXだった。mixi2でそれがわかった。私のシャッターはまだ開いていた。
すると気になるのは「医療情報」のことだ。べつに私は「ただしい情報」とやらを発信する基地になりたいわけではないし、「まちがった情報」を殴りに行くボランティアアカウントを自称してチンピラ化するつもりもない。でも、Twitter時代から、なにか、そういう、医療についての情報の「ハブ」としてはたらけないだろうかということをずっと考えてはきた。積極的に動いた回数はそうでもなかったと思うけれど、いつだって考えてはいた。医療や健康や体調や病気にかんすることをもう少し気軽にやりとりできる場所。そんなんいくらあっても困りませんからね。なんとかうまくmixi2でも作ることができないだろうか。「SNS医療のカタチコミュニティ」を作成するか。YouTube動画をひとつずつ流しておこうか。いや、たぶん、そういうことではないのだろう。まあ、そういうのがあってもいいのかもしれないが。
医療情報をどう扱っていくかについて、最近の私は、SNSにおける展開をほぼあきらめ、いくつかの学会の内部で委員会に入って、市民向け・専門家向けの情報を整理して、学会の予算を投じて改修したホームページに掲載するような試みを進めている。これらは完成していないので、みなさまにお出しできるコンテンツはまだないのだけれど、いずれお目にかけられる日は来る。しかし、そういう、「専門家の側からの発信」はまあ続けるとして、「ひとりの市民」として、それはもしかすると「一般的な市民」ではないかもしれないし、「最大公約数的な市民」でもないのかもしれないが、誰もがある種の「外れ値」でありえる現代において、自分が一般を語れないからといって、一般に広く情報をとどけるやりかたをあきらめるのも、もったいないのではないかと思うし、生きている甲斐がねぇんだよ(©超人タッグトーナメント戦のテリーマン)という感じなのである。
mixi2のおかげで病理医ヤンデルはよみがえった。もちろん悩みもジレンマもいっしょに戻ってきた。さあどうしたものかなあ、という毎日に私はワクワクしている。