と、一気にしゃべったわけで、相手はもちろんフリーズした。でも途中でうにゃうにゃ合いの手を入れられても迷惑だなと思ったし、むしろ積極的にフリーズ効果を狙うつもりであった。私の仕事は本質的に、コミュニケーションを円滑にするものではない。むしろ、頭の中でスルスル華麗に流通している情報に棹さすというか、摩擦によって熱を発生させるというか、衝突による衝撃で内部を動かして整頓のきっかけとするというか、そういう邪魔さ、いやさ、オノレコノヤロさにこそ、私の仕事の効用が含まれているのではないかと思う。
コミュニケーションとは多様であったほうがいい。連絡調整は複数のパイプによってなされたほうがいい。その中にはノーストレスの特別快速的迅速連絡調整があってしかるべきだが、それと同時に、ひっかかり、つまずき、おたがいにごつんごつんと頭をぶつけあうような、なかなか伝わらなくてずれがうまらなくて歯がゆくてもどかしい、札幌市電のササラ電車並みにゆっくりゴリゴリ進むタイプのものもあっていい。
チーム、あるいは部署、そういったものの中に、別個の摩擦係数を有する経路があるのが理想だと思う。たとえば患者を相手にするにあたっても、「本音をいいづらい医者」が片方にいて、「つい弱音をもらしてしまいたくなる看護師」がもう片方にいて、その両者がそれぞれ患者と接することで、医療チームは患者と包括的なコミュニケーションをとることができる。このときたいてい、医者は、「我々ではだめなんだよな」と言うのだけれど、それは決して、「我々は対話の場に必要ないんだよな」ということにはならない。
なんかそういうことを最近よく考える。病理学の真髄を「わかりやすくしゃべる」人がどこかにいていいのだけれど、私はそろそろ、「わかりにくくしゃべるほう」に回ったほうがいいのかもしれないなということを考える。今までわかりやすくしゃべるほうであったかどうかはともかくとして。それは今までとなにも変わらないのではないかという話はともかくとして。