推し活という言葉がそぐわないオタ活というのがある。私はそういうほうが馴染む。「推しは◯◯です」と言っている自分や他人をみるのが気恥ずかしいような気持ちがあるし、それだけではなく、「ほれたはれたのほうの好きばかりが好きじゃあるまい」ということ。
省略をしすぎなのだ。包括をしすぎなのだ。ひとつの言葉がもつ複数の意味のあいだで反復横跳びしながらすり足で距離を詰めていくような、じりじりとした感情の言語化を、日単位どころか何年もかけてじっくりじんわり成し遂げていく、そこにおそらく私たちの考える「オタ活」の主軸があって、この世界のどこがどう心地よいのか、この関係性のなにがどう気持ちいいのか、直感的に大事にしたいと思ってそこはまあ前提とするにしても、そこからずっと長い時間をかけて、「どうして」の部分を緻密に詰めていく作業こそがいわゆるオタ活だ。それを「推し」という言葉でくくられてしまうと、少なくとも私は、どうも雑だなと思う。あるいは知人もそういう気持ちでいるのではないかと私は勝手に想像している。彼の気に入った作品の話を聞いていると、「このキャラが好きなのか」みたいなことはデフォルトでは思いつかないし、まして「推し」という観念で彼の行動をはかることはむずかしい。
まあすべては私の想像でしかなくて、彼に直接そうだと聞いたわけではないのだが。
各種のSNSがどんどん気味の悪い場所になっていって、それでも掃き溜めに咲き乱れる一年草のような輝きを、日々なんとか探り当てては、やっぱりSNSがなかったころよりも今のほうが豊かだよねと、自他に言い訳しながら使い続けているのだけれど、昨今、SNSの明るい面、楽しい面、救いとなる面の多くが「推しに便利」という言葉で強調されすぎているような気もして、それはそれでなにか違うんだよなという感じだ。何かが好きだから推す、エールを送る、買って支える、そういった活動の尊さを私もよく理解しているし、そうやってSNSが使える方々はぜひそのまま人生をゆたかにひらいていってほしいと本気で願っているけれど、私は最近気付いた。私は何かを推したいからSNSを使っているのではたぶんなかった。たまになにかを応援するときにはやはり便利だなと思うけれど、そればかりではなかった。私は何かをずっと考え続ける場所としてSNSを使っていたかった。それがどんどん叶わなくなっていくのは、SNSのプラットフォームの責任ではないし、SNSユーザーの責任でももちろんない。エントロピーがそうやって増えていると言えばそれまでの話だ。しかし、どうにもやりきれない。さみしいものだ。好きと推し以外でドライブされているオタ活がこうまでないがしろにされていくなんて、SNSを使い始めたころは、思ってもいなかったのだ。