みのきわ

死ぬことばかり考えて生きるのがおろそかになってはいけないよ、みたいな、中身がありそうでない言葉のこと、そして、こういうスカスカのスポンジみたいな言葉に救われる場面もたくさんあるという悲しい現実のことを考えていた。何についても言えることなので応用が効く。たとえば今まさに忙しそうに来週の会議の準備をしている人に向かって、「会議のことばかり考えて会議の準備をしている今この瞬間をおろそかにしてはいけないよ」と言えば、聞いた方はなんだかちょっと撃たれたような気になるかもしれない。実際にはなにも言っていない。

「実際」ばかり考えている人間はつまらない。ところで「実の際」とはなかなかよい言葉だ。それってつまり皮ではないか。実際には、とは、皮には、ということだ。皮にはなにも言っていない。それはそうだろう。

言語化のすばらしさを語るウェブ記事が流れてきてすぐに『言葉なんか覚えるんじゃなかった』のことを思い出す。逆張りは多様性の要だから、私はなににつけても反対のことをとりあえず考えて中間地点を探そうとする。そうやって中庸がどうとか言おうとする。ものごとがなんでも線分の上に乗っていて、右と左、奥と手前、上と下、その間のどこかにあるはずだという一次元的思考の浅さ。本当に多様な価値は互いにねじれの位置にあるベクトルとして交わりもせず比べられることもなく、そもそも同じ時間軸にも存在しないから視界に同時におさまることもない。言語化のすばらしさを語るウェブ記事が流れてきてすぐにやるべきことは石狩市にある温泉施設の入口付近でカピバラが温泉に入っていることが見られるという北海道ローカルTVの報道を愛でることである。カピバラがのぼせないようにお湯の温度は体温よりも低い33度に設定してあるとのことだ。それって体温奪われてしんどいんじゃないの? 毛がたくさん生えた生物はそれくらいでちょうどいいのかな。でもニホンザルって普通に我々と同じような温泉に入るはずだからそんなこともないんじゃないのかな。

野菜や果物を調理するときに「皮にも栄養があるんでぜんぶ入れちゃいましょう」という料理人を見るたびに正直ちょっとうっとうしいなと思う。加熱すると栄養が逃げるとか表面を焼いてビタミンを閉じ込めるとか、決まり文句と曇りのないマナコでPVを稼ぐ姿を見ていると料理の味がだんだんしなくなっていく。サプリメントにも栄養があるんで一瓶入れちゃいましょうと言われる日も近い。

「大河ドラマに裸が出てきて叩いている人」が朝からずっと裸の話ばかりしていて下品だなと思った。ほかにも見るとこあったんじゃないのか。裸に気を取られすぎなのではないか。まあ人間だから裸には気を取られるよな。服を着るという文化によってかえって強調されてしまった「対側」としての裸体。こういう思考のしかたってたしかにべんりなんだよな。



なにかを対置せずに語ることのつまらなさと、何かを否定してper seとやって語ることのつまらなさ、これらを比較している時点で、もう、圧倒的に、逃れられていない。パカリと脳のフタが開くような思考のありようを探す。それは画家や音楽家が長年とりくんできた話とオーバーラップするのかもしれないと思う。皮をむいて皮ばかり食うような思索が実際的だとは思えない。