「筋書き」という表現がある。最近はあまり聞かない。「現実は筋書きのないドラマ」という言い方も、昔はたまに目にしたけれど、鼻につく表現であるからか、淘汰されたように思う。
人はウソをつくときほど筋を気にする。逆に、体験をそのまま語るときは、仮にフリが効いておらずオチがなくはじまりとおわりが確定していなくても、つまりは「筋」が通っていなくても、あまり気にしない。「でもほんとうにあったことだもん!」の一言で押し通せるからだ。
「現実は筋(書き)のないドラマ」というよりも、「筋(書き)があるととたんにフィクションくさくなる」ということなのかと思う。「よくできた話だなあ!」と言われたら、それはウソくさいなあと言われているということだ。
展開が都合よくつながっていて説明がしやすい話ほどウソっぽい。筋の通った話は脳にとってのサプリメントのようなものだ。ダイレクトに栄養をもたらすとされるが舌触りという概念がなくありがたみもなく費用対効果も悪く長い目で見るとじつは滋養強壮にも美容健康にも効果がない。あるいは枝葉末節をすべて刈り込んだ盆栽のようなものだ。わびさびがなく趣もなく悲しみも喜びももどかしさも投影できずサナギの駐屯地くらいの役に立つのが関の山という悲しき彫琢物だ。
現実に起こるものごとは、パチンコ台を通り抜ける銀の玉のように、バチガチあちこちに衝突しながら意図しないポケットに入り込んで、こちらが感知できない演算の結果、玉を出したり引っ込めたりする複雑系の報酬である。複雑系の応酬である。複雑系の郷愁である。複雑系の房州さんである。
「筋を通す」という言葉もある。責任を取るという意味で用いられたりもするがどちらかというとアメリカの消防車が現場に急行するために駐車車両をがんがん跳ね飛ばして進むようなイメージがある。道のりを歩むというのは、本来そういうものではないだろう。路地を縫いながらひとつひとつ丁寧にポストを探って新聞を入れていく少年の新聞配達のようなものだろう。新聞を注文していない家には近寄らないけれど前を通って犬にほえられて小さく飛び退いたりもする、カメラも視聴者も森口博子もいない毎日のおつかいだ。筋を通すというのはそうではない。苦学生のアルバイトよりもはるかに暴力的で強権的だ。筋を通すためにはある種の建前というか集団幻覚を必要とする。無理が通れば道理は引っ込み、筋が通れば数理が引っ込む。
診断という行為は、筋のないところに筋を通す行為ではないか、と、考えた。今日は、じつは、それだけの話だ。
NON STYLE石田がはじめたポッドキャストの第1回ゲストに元・和牛の水田が出ていた。漫才を語るというコンテンツなのに漫才をしなくなった水田を呼ぶなんてパンチが効いている、と出演者たちが何度か言う。ディレクターが言わせたいのかなと感じる。筋が通っている話だと感じる。石田(というか番組側)が、水田にいくつか質問をするのだが、その中に、「ひとつのネタが完成するまでにどれくらい時間がかかりますか」というようなものがあって、水田がそれに「答えられない」と言った。答えられないということはないだろう、分散が高すぎるという意味だとしても適当に中央値言っとけばいいじゃん、と思って続きを聞くと、
「漫才のネタというのは、演っているうちにどんどん変化していく。劇場にかけるたびに細かく調整が加わっていく。だから完成するまでにどれくらい時間がかかっているかという質問には答えづらい」
みたいなことを言うわけだ。そもそもいつが完成なのか本人たちもわからないという意味だった。なるほどそれはすごく納得できる話だなと思った。なんだか科学と似ているなとも思った。「筋書きを用意する」ことのウソくささからきちんと距離を取っている姿だとも思えた。リアルにお笑いをやっている人たちの心象のようなものを見る思いだった。