ママ―、マーガリンどこー? そこの角を右に曲ーがりん! というダジャレがあるのだけれど、台所どんだけ広いんだよ、というツッコミをこないだはじめて受けた。むしろなぜ今までこのツッコミがなかったのか不思議である。なので今日からはこのようにアレンジする。店員さん、マーガリンどこの棚? そこの角を右に曲ーがりん! いや客にタメ口はだめだろ。条件設定が厳しい。リアルにありえる風景が自然とギャグになっているというのが理想なのだがマーガリンだとなかなかそれがうまくいかない。ガガーリンってどうやって宇宙に行ったの? そこの角を右に曲ががーりん! 言われるがままに角を曲がった私はそこで驚愕の光景を目にすることになる。かねてより研究中と言われていた新型H9ロケットの試作品ではないか。えぇーっ! これから私、どうなっちゃうの~~!!?!? どうもならんわ。曲ががーりんってなんだ。
と、いうようなブログは、前にも書いた気がする。特にマーガリンのくだり。でも探し出せない。検索しても出てこない。病理医ヤンデル マーガリン で検索している自分がアホっぽい。予測検索の欄に「病理医ヤンデル 終了」と表示されて笑ってしまう。人間に対して終了という言葉を使っていいのは自称のときだけだろ。
「これは何度か言っていることなんですが」ではじめるポストがあまり好きではない。前にも言ったという先見性、繰り返し説明してやっからなという上から目線、当然性を高めようとするいやらしさみたいなものがパツンパツンに詰め込まれた言葉だから瞬間的にウッと思って左足から飛び退いてしまう(剣道の名残り)。それはともかく最近、これに似て非なる表現でしゃべらざるを得ないことがあって、困っている。
「これは何度か言っているかもしれないんですが」。
ぼんやりしている。ふんわりしている。言ったか言ってないか覚えていないということだ。せつない。なんか前にも言ってるっぽいなとは自分でもわかっている。でも言ってなかったらここで言うべきかなと思って言うのだ。しかしやっぱり口に出してみると相手がニヤニヤしているので、ああ言ったことがあったんだなと思って落ち込む。たとえばこうである。
「これは何度か言っているかもしれないんですが……シリンダーに! 何をしりんだー!」
いやちがう。ダジャレじゃない。
「これは何度か言っているかもしれないんですが……私は小学校1年生のころ、近所のグラウンドで、自転車に乗った同級生3人に周りをぐるぐる回られながらネズミ花火を足元に投げつけられるといういじめをうけまして……」
いやちがう。供述を繰り返してどうする。
「これは何度か言っているかもしれないんですが……顕微鏡で組織像を見るときにはアーキテクチャだけではなくテクスチャを言い表すようにするといいですよ」
そうそうこういう感じ。指導の現場で何度も同じことを言ってしまうのである。できれば相手ごとに「どこまで教えたか」をきっちり覚えていられたらかっこいいのだが、私はその、かっこよくないのである。何度も同じことを説明する私を見て若い人は基本的にニヤニヤしている。おじいちゃんテクスチャはもう言ったでしょみたいな顔でこっちを見ている。くやしいがもう覚えきれない。あのな、教え子にな、藤田も藤巻も藤浪も藤川も富士川も藤も夫人もいるわけよ。無理だよ。ごっちゃになるんだよ。今のはあくまで例え話で私の教え子たちが藤かぶりしているというわけではありません。しょうがないから毎回エクスキューズを頭に付ける。「いつも同じこと言ってるおじさん」というあだ名を甘んじて受け入れるフェーズ。
こんなに覚えられなくなっているのなら。
今なら、『君の名は。』を見返しても新鮮に驚けるかな?
でもそういうのはむりなんだよな。
たぶん、大事なことがぜんぜん覚えられなくなったのではなくて、私の中にはもう、「そんなことより大事なこと」がいっぱい詰まっているのだ。もう入る場所がないのだと思う。学生? 研修医? すまん、全員、もう、「先生」って呼ぶことにしている。「学生なんだから先生って呼ばないでください」? うるせえ名前わかんねぇんだよ。さっき聞いたけど。