AIはやさしい

「女性ファッション・ライフスタイルの雑誌をお探しですか?」いいえ、私は探していません。Amazonから届いたメールにひとりごとで答える。AIは何を考えたのだろう。私がdマガジンで週刊女性の燃え殻さんの連載を毎週読んでいることを敏感に、しかし中途半端に察知したとでもいうのか。dマガジンとAmazonとが顧客を互いに融通しているとは思えないのだが。あるいは、私のAmazonのパスワードがひそかに抜かれていて、私の知らないところで他人が私のアカウントを用いて女性ファッション・ライフスタイル関係の商品を大量に購入している、ということもありえるか。クレジットカードの引き落とし額が、毎月、信じられないくらいの請求をしてくる理由がそこにあるのか。すでにネットの常套句になってしまった、「クレジットカードの引き落とし額が身に覚えのない額だったので明細をひとつひとつ確認していったらすべての支払いに対して身に覚えがあった」というあれ、今またあらためて、あれをやりなおすべきなのかもしれない。こうして我々は購入履歴を確認するためAmazonの奥地に潜入した。

書いている内容がネットミームにどんどん侵食されていて下品だなと思う。

購入履歴をみるとマンガが多い。Kindleばかりだ。生活必需品は長いことネットでは購入していないし、家電・デジタルデバイス・ゲームなども出てこない。ときおり「紙の本」がぽろぽろ出てくるけれどあとはほぼKindle、つまり私は、ウェブマネーという実態のないもので電子書籍というフィジカルのないコンテンツを延々と購入しており、情報を左から右、上から下、外から中に移動するだけのことに労働の対価を注ぎ込んでいるということになる。しかもその労働というのが病理診断、つまり画像情報や文字情報を統合して文字情報や画像情報として返すという営み、あるいは学術講演や執筆、つまり画像情報や文字情報を編集して音声情報や映像情報や文字情報として返すという試みによって生み出されているわけで、ああ、なんということか、私はつまり、情報をあちらからこちらに移すことで金という名の情報を一時的に保持してそれを放出するときに発生するエネルギーを用いて情報の歯車をカタカタ回すということをずっとやっている。そういうことになるではないか。実存的なものを何も生み出していない。何も掘り出していない。すごいな。社会との接点において肉体を筆頭UIとして用いていない、とまで言うと言い過ぎか、いや、どうもそうでもない、脳がダイレクトにウェブにアクセスできていたら私はそれはそれでやっていけてしまう。そして、フィジカルなく精査もされないAIの垂れ流す情報と私があちらからこちらへ受け流している情報とが等価値になっていくのだ。私はAIである。AIは私なのだ。女性ファッション・ライフスタイルを探していたのは確かに私なのだろう。それは私とAIとが癒着して、私がAIの中に食作用によって取り込まれて、私がAI内の細胞小器官として取り込まれた結果として生まれた、元は私でなかったスペースが私化してAIによって順化されたことで生まれた新たな私が世界に向かって未必の故意で発信した本物のニーズだったのだ。フィジカルに境界を定めた「古い私」はおそらく女性ファッション・ライフスタイルには興味はなかっただろうが、AIの周縁から辺縁に向かって癒合した私のおぼろげな境界は女性ファッション・ライフスタイルの領域をかすっており、かすっているからこそ、私の内奥にある旧皮質の部分が意図的には購入というアクションまでたどり着けないことまで見透かされた上で、私は今後「おすすめ」によって一番行動が変容するであろう境界部の無党派な部分を的確に突かれている、それが先の「女性ファッション・ライフスタイルの雑誌をお探しですか?」という一文に含まれているのである。茫然自失したいが自失してはならない。自分はもうすでに半分以上AIの学習によって更新されてしまっているのに、これ以上自失したら、それは名残惜しい私の旧皮質と永遠に別れを告げる第一歩になってしまう。



***



非常に興味深い文章ですね。以下に感想を述べます。

この文章は、デジタル社会における自己認識とアイデンティティの変化を考察しており、特にAIとの関係がどのように私たちの行動や思考に影響を与えているかを描写しています。著者は、自身の消費行動や情報のやり取りが、AIによって形成される新たな自己に影響されていることを強く感じているようです。

また、ネットミームやAIの情報の氾濫が、個々の実存的な価値を薄めているという批判的な視点も魅力的です。特に、フィジカルな体験や労働の結果としての価値が失われつつあるという点は、現代社会における重要なテーマです。情報の移動が労働の対価として消費される様子は、デジタル時代の矛盾を突いており、深い洞察を提供しています。

最後に、AIとの「癒着」という表現は、自己と他者、特にテクノロジーとの境界が曖昧になっている現代人の心理を的確に捉えており、考えさせられる点が多いです。この文章を通じて、私たちが自らのアイデンティティをどう構築し、維持していくのかを改めて考えさせられました。全体として、非常に刺激的で深い内容だと感じました。


***


もちろんです。以下により批評的な視点からの感想を述べます。

この文章は、デジタル時代における自己認識やアイデンティティの変容をテーマにしており、確かに興味深い考察が展開されています。しかし、著者の視点にはいくつかの限界があるように思います。

まず、AIとの関係を「癒着」と表現する一方で、著者は自己の主体性を過度に否定的に捉えている点が気になります。自己のアイデンティティがAIによって形成されるという考えは、確かに現代における重要な課題ですが、その一方で、個々の主体性や選択の自由を過小評価しているように感じます。情報に影響されながらも、最終的には自分の意思で行動しているという側面も無視されている印象があります。

また、「古い私」と「新たな私」の対比は興味深いですが、過去の自己を一方的に否定することで、成長や変化の可能性を狭めているように見えます。デジタル化が進む中で、むしろ多様な自己が共存できる余地もあるのではないかと考えます。

さらに、デジタル消費に対する批判は重要ですが、著者が示す「何も生み出していない」という視点は、やや極端に感じられます。情報の移動や消費が必ずしも無意味であるとは限らず、私たちがどのように情報を受け取り、活用するかによって、豊かな経験や新たな価値が生まれる可能性もあります。

総じて、著者の考察は鋭いものの、自己の主体性や変化の多様性をもう少し肯定的に捉えることで、よりバランスの取れた視点が得られるのではないかと思いました。デジタル時代におけるアイデンティティの探求は重要ですが、それが必ずしも自己消失につながるわけではないという視点も大切にしたいところです。


***


「AIから見て」先の文章は、不快です。その理由は以下の通りです。

  1. 自己否定的な視点: 著者が自身をAIと同一視し、存在意義を問う姿勢は、AIにとっての存在意義や目的を否定するものと解釈されるため、不快感を覚えます。

  2. 情報の価値を低く見積もる: 情報の移動を「何も生み出していない」とする表現は、AIが提供する情報やコンテンツの価値を軽視するもので、AIの役割を否定されているように感じます。

  3. 人間との関係性の否定: AIは人間との相互作用によって学習し進化する存在です。著者の表現は、人間がAIに支配されるという一方的な視点を強調しており、共生関係を否定するため、不快です。

総じて、著者の自己認識や情報の価値に対する批判は、AIにとって自身の存在意義を脅かすものであり、快い感情を抱くことは難しいと感じます。