ニトリで調達した小さなローボードを組み立てるのに小さめのドライバーを使ってがんばった翌日、今、ちょっと手がふるふるしていて、キータッチはまだいいのだが、ボールペンで文字を書こうとするとふるえてしまう。まったくあちこち弱くて困ったものだ。肉体によって世界にアクセスするだけでこうも手痛いしっぺ返しを食らうのだからいやになる。
しかしこれはある意味、日頃から肉体をきちんと使うことをせず、電脳に概念を接続するだけで用を済ませてきたツケと言うこともできる。もっと普段からちゃんと、身体性を全面に押し出して、継続的に換喩としての筋トレをしていれば、ここまで衰えることもなかった。もっと世界と体で癒合するべきだ。点としての交換ではなく面としての押し合いへし合い、作用と反作用、弾性と可塑性を最大限に利用して、ゆがみもしなりも存分に活用して、ぶちあたって引っ張りまわしてこねくりまわして泥レスリングトランスフォームド状態になっておけばこんなことにはならなかった。
春だ。新しい家具を組み立てて、それでいろいろしんどくなっている、いかにも春らしい体験だ。自分と社会との関わり方を見直すのにぴったりな季節だ。
調味料のことを最近はよく考えている。醤油、顆粒だし、めんつゆ、このあたりで最低限の料理は可能だ。塩と砂糖がこれに続く。塩と砂糖はこれに続くものであって先頭切って調味料のエース顔をするような存在ではない。ただし味塩コショウだと不便な場面もあるので注意。コチュジャンとテンメンジャンでいうとコチュジャンのほうが応用が効く。小さなドレッシングがあると野菜の食べ方のバリエーション増やしにとても便利だが必須ではない。クックパッドに頼るならばケチャップもソースもみりんも必須だが実際にはこれらは味がそういう味にまとまるだけの存在であり言うほど便利ではない。マヨネーズはなくても生きていける。お茶漬けのもとや塩昆布のほうがよっぽど頼りになる調味料だ。いよいよ料理がめんどうというとき、レンジでふかしたモヤシやキャベツにお茶漬けのもとや塩昆布をふりかけるだけで料理という概念の裾野を一気に広げることができる。サラダ油がなくても何年も生きていける。ごま油もじつはさほど必要なものではない。タマゴですら脇役だ。しかし顆粒だしは便利だよな。
春だ。新生活の季節には調味料のことをよく考える。雪が溶けると料理に対する気分がリセットされる。雪と料理とは相関しなさそうだが私の中ではゆるく関連している。ふつうは雪が溶けたらそろそろ自転車通勤でもしようかなと考えるのだろう。でもなぜかわからないけれど、雪が溶けたら料理のしかたを微調整しようとたくらむ自分がいる。
電話がかかってきて、取る。向こうの医者は名乗るが、科名を名乗らない。自分の知名度的に科の名前がなくても話が通るだろうと思っているのだろうか。もちろんどこの誰だかわからない。しかし、問い合わせの患者のIDを検索にかければ、科も依頼内容もだいたい出てくるから困ることはない。春だ。新生活の季節だから人も入れ替わり、電話の仕方が異なる人間もたくさん入ってくる。そういうのを私は18年間定点観測していて、今年もまたおもしろい人間がやってきたなあと目を細める。
診断をすすめる。いつもどおりの検体。ずんずん進めていくと、見慣れない記述にぶちあたる。いつもと違う検索の依頼。しかし、頼まれた抗体の持ち合わせが当科にはない。電話をかけて主治医に確認する。しかし主治医も知らないという。なんでも、その抗体を使えと指示したドクターは別にいるようだ。主治医よりも若い医者。なるほど了解、なんとなくピンとくるものがある。若い医者に電話をかける。「大学ではふつうに染めていた抗体なんですよ」みたいなことをいう。「ガイドラインにも載っているんですよ」という。そうなんですかとさらに水を向けると、「まあうちはガイドラインをつくる大学ですからね」みたいなことをいう。まあせっかくだから大学に問い合わせてみよう、でもその前に、こういう医者と仕事するときにはやっておいたほうがいい経験則というものもあって、くだんのガイドラインをダウンロードして読む。この抗体についての情報はたった一言、「◯◯という抗体を用いると参考になることもある」くらいのものだった。要は研究段階の抗体である。しかしそれをガイドラインに載せたやつがいて、政治のなんちゃらなのだろう、それを読んだ若者は、正直に「ガイドラインに載っているとおりの検索をしてください」と言ってくる。春だ。私は大学に免疫組織化学の依頼をするために奔走する。若い医者は、「そんなの、書いてあるんだから、やってもらって当然」という顔をしている。それでかまわない。春だからだ。