めっちゃ忙しいかというとそうでもない。ただ、ずっと心拍数が高い感じの日々が続いている。リズムというものがいまいち感じられない。起伏はあるが、なにかを繰り返しているという感覚からは遠い。駅伝の高低差マップを指でなぞっているようだ。
飯を食い、排便をし、睡眠をとり、みたいな通り一遍のリズムはある。しかし、精神活動が生活のリズムに完全におぶさっているかというと、それはわりと、そうでもないのではないか、という気がする。
人間たるもの基本は繰り返し、メトロノーム、波の満ち引き、そうやって、チクタクやっていくもの。そのほうが、効率的でもあるだろう。ただ、待てよ、メトロノームと波は同じことを言い表すためのたとえだが、よく考えると違う。波は、寄せたり返したりしながらも砂浜に書かれた相合い傘やいじめっこの名前などを毎回きちんと消していく、つまりは繰り返しているだけではなくて毎回更地になるように撫でつけて何かを堆積させていくもの。メトロノームは何も積み上げていかない。波は厳密には「往還」ではなくて「更新」であるという。人生にリズムがあるというならばそれはメトロノームではなく波でなければおかしい。そして波とは一部は繰り返しだが一部は堆積の原因である。
波を時間軸方向に伸ばして螺旋と言い表すこともできる。因果とは螺旋のウズのよう、みたいな話だ。でも、螺旋と言われると、人生のたとえというにはちょっとカッチリはまりすぎているような気もする。螺旋とはもう少し計画性のある構造物に思える。「方程式によって描かれる理論上の構造物」。海の波が寄せて返すようすを時間軸方向に引き伸ばしたとしてそれはなんらかの変換を経たとしても果たして螺旋になるだろうか。ならないのではないか。
海の波、あるいは、音波。
伝播、運搬、蓄積、偏り、ノイズ、そういった、「耳の味蕾」にひっかかってニュアンスのきっかけとなるようななにかを運んでくるタイプの波、どういじっても螺旋形態にはならないのではないかと思う、が、数学的にはこれこれこうすればなるよと鶴崎修功あたりに言われたらぐうの音も出ない。
ジャーニーの中に存在する小さな繰り返しをクローズアップしてリズムと呼ぶか、川と波がぶつかる場所でかたちをかえていく三角州をタイムラプスしてエントロピーの増大と呼ぶか、みたいなことをちまちまと書いているだけである。
大学で働いてみようかなと思う。それはおそらく私が自分の毎日を少しだけ繰り返しから遠ざけるための処方なのだと思う。ほんとうは、繰り返し、積み重ね、によって成し遂げられていくもののほうが、少しだけ多いのかなという気はするのだが、私は心拍数が高い状態が続いていて、これをもうどうしたらいいのかわからないのである。