終わりを忘れない

西野マドカと続けていた文通企画をまとめて文フリに出すという企画が、じつはあった。私のあずかりになったまま、放置してしまった。企画は全く進んでいない。

更新を終えたときに、いっそ西野にまかせておけば、いまごろはわりといい感じの同人誌的な何かができていたかもしれない。しかしなんとなく、「せっかくだから私がやるよ」と言ってしまい、私はそれを当然、大事なことだと考えて、だから、すぐに着手しなかった。結局ここまで何も話が進んでいない。

私が引き受けるべきではなかった。もったいなかった。申し訳ないことをした。

これだけ時間が経ってしまうと、今になって読み返すのもちょっと気恥ずかしい。しかし、まとめたらそれはきっとなかなかよいものができたと思う。今になってしまったが、これからまとめたっていいのだろう。しかし私はおそらくそうしない。


https://note.com/dryandel/m/m707d67d17c89



私はこの一連の文章を目の前に、どうまとめていいか、今もまるでわからない。ZINEってのはこういうときに作るんだろう。何も考えず。その場の気分で。ノリで。おしゃれだけを目的として。かかわりだけを目的として。自己愛だけを目的として。それができる人間全員のことをうっすらとうらやましく思い、そして多少なりとも憎んでいる。




西野マドカという名前は仮名だ。本業は編集者である。ただし私は一度も仕事をしたことがない。なのにいつどこで知り合ったのか、それは忘れた。ちなみに私は西野のパートナーの方とも知り合いである。そして夫婦それぞれ、違う偶然で知り合ったということをなんとなく覚えているけれど、いろいろ、きっかけも、道のりも、さっぱり忘れた。

書き残しておいたほうがよかった。私はこんなにも忘れる。



そして、なんというか、表現がむずかしいのだけれど、私はこれまでも、今も、しっかり付き合いのあった人を忘れたいと思っている瞬間が、けっこうある。ふっと距離が空いた瞬間を見計らってその場からさっと離れていきたい気持ちをいつも抱えている。それは相手とそこそこ親しくてもおかまいなしに生じる。恩を仇で返すような行為。

でも私の中にもいいぶんがある。これ以上近くなるとお互いにあまりおもしろくないよな、という判断を「しなければならなくなる前に」、あらかじめ少し離れておいたほうが、長い目で見てより安定して付き合えるのではないかと思っているのだ。

ただ実際にはそういう長期的なことをにおわせることもなく、ある年から急に年賀状を送らなくなるような感じでさっといなくなる。だから私は、ある程度長い付き合いの人間からは、一様に、平均的に、「けっこうすごいタイミングで義理を忘れるタイプの人間」と思われている。



西野は自分の作った本を送ってこない。編集者なのに。それがおもしろかった。そこはなんだか私と感覚が似ている気がした。自分のかかわったものの、物体そのものを送りつけてくるやつらは脳幹がいかれている。なぜそんな、はずかしいことを、平気でできるのだろうと本当に疑問に思う。これは理屈ではなく情念の話なので反論をされても困る。ただ、そのように感じる、ということなのでしょうがない。そういうところを西野はいつもわかってくれていた。

そんな西野とのやりとりをすぐ本にしなかった一番の理由が、あるいは、「これ以上しっかり関係を築くと、あまりおもしろくないかも」と思ってしまった私の感性によるものなのかもしれない。私はそのことを今日になってふと思い、なんとも、ひどいことだなと我ながら、切腹するような気持ちで今日のこの記事を書いた。

あのとき私が「これを本にしよう」と自ら提案して、自ら企画を引き取ったとき、最初はたしかに、この西野の良い文章を、私の合いの手といっしょに本にしたいと強く願った。しかし、過去ログを読み返しているうちに、これをフィジカルな書籍にまとめてしまったら、私たちの関係は強くなりすぎるのではないかということを、私は確かにおそれた。

私はこういう、終わりのきっかけみたいなものは、忘れない。はじまりは忘れるが終わりは忘れない。適者生存の理的には合目的なのかもしれないが、なんともふしぎな、皮肉なことである。